プロとアマの明確な違い

プロとアマチュアには明確な違いが存在するのはあたり前のこと。

プロはその「仕事の成果」で飯を喰っているのに対して

アマは「仕事の成果」で飯を喰っているわけじゃない。

ということは、「出た成果」の良し悪しによって食える飯の量や質が変わるのはあたり前の話。

良し悪しがあるということはつまり、「同じじゃない世界」だという事。

「結果の差は準備の差」と言われる様に、それは全て「準備の差」だという事。

じゃあ「準備」って何なのか?

端的に言ってしまうと、それで飯を喰っているということは「判断」や「責任」そして「結果」を最後の最後に「他者」にあるのはアマだし、「自分」にあるのはプロだと思う。その「判断基準」や「責任がとれなくなった時」に引退するのを「自分で」決められる日までその「準備をし続けている」のを準備だと思う。

結果の責任を負うってことは、正直しんどいもの。だけどそれがそもそも当たり前だからそこに「求める結果を出すための努力」が存在するし、それが仕事。出来ないのは自分の能力不足だから、それはプロとして「目標設定レベルを落とす」か「努力の水準を上げる」の2択のみしか存在しない。

いくらプロであっても、完璧など存在しない。それは生きてる世界がプロだからであって、アマは責任が自分にないしそれで飯を喰っているわけじゃないから「成果が出ているように勘違いする」

いくらダルビッシュ投手でも、田中マー君でも、柳田選手でも・・いつも3冠王完全試合をするわけじゃない。ぼこぼこに打たれることもあるし、3三振もある。結果は良くても悪くても自分に返ってくる世界は常に孤独だし、競争社会で生きてくわけだから傷のなめ合いなど存在しない。仲良しごっこは狭い世界での傷のなめ合いで、それは小さくまとまったアマの世界でしか通用しないもので、最終的にはそれが足の引っ張り合いに繋がってゆくことに気付かない。

9回ツーアウト満塁で1打逆転の状態でにいつもそこにいるのがチームの4番だし、そこで打つのがチームの柱の仕事だし、エースや抑えの切り札はそれを抑えることが仕事。

もちろん毎回抑えられるわけじゃないし、毎回打てるわけなどありえない。

1流のバッターでさえ、3冠王でさえ、首位打者でさえ打てる確立なんて所詮3割で、7割は打てない。だからこそ期待感が高まるし、観ていてはらはらするもの。逆にピッチャーの側からすると7割は抑えて当たり前だけど、守る側にはエラーも存在するし悪送球も存在するので1つのミスも許されない。

この場面で結果の前に「よし、俺に打たせろ!」とか「よし、俺が抑えてくる!」って言える奴がプロとしての準備をしてきた人間で、この場面で「ピッチャー交代してもらえます?」「代打出してもらえます?」ならもうチームにとっては要らない。

よく交代させられたピッチャーがベンチでグローブ叩きつけたり、ベンチ殴って骨折したりしてるけど(結果チームに迷惑かけるからやっちゃダメだけど)あれぐらいの悔しさがあるのはやっぱりそれだけ練習して準備してきたからで、自分に対しての不甲斐なさの現れ。

こういうプロの真剣勝負だから観ている側も観に行きたいし、期待値も上がるし、ハラハラドキドキさせられる。プロの世界は毎年、イキのいい甲子園の優勝投手や4番バッターが入ってくるので生き残りは必死だし、そこに残れるからプロなんだ。

残るから自分で引退を決めることが出来るし、引退を惜しまれるもの。

でもそれを楽しめるぐらいまで実力で「安定」したレベルになった人だけが本当の「ベテラン」としてそのプロの世界に残り続けて若手の育成をする。体でも心でもそして結果でもプロの水準を満たしているのが「真のベテラン」で、そこから「体」と「結果」が伴わなくなった時が引退。

でも真のプロは「心」があるので若手がいろんなものを聞きに集まってくる。

イチロー選手が言うてはったのがまさにこれやね。

「過程は人を作る上で必要なこと」

農業の世界でも同じやね。

結果はごはん食べてく上で必須やけど、過程と根拠を蓄積しないと次が育たんね。

 

 

 

努力と根性と計画性のなさと

若いうちにいわゆる「一流の世界」の人と接する経験があるのとないのでは、その後の自分に与える「人生観」が全く違うんだろうなと感じる。

自分は幸運なことに金メダリストと同じグラウンドで練習する姿を毎日見たり、日本一になる集団、プロのスポーツ選手で飯食う人、造園や財界、飲食、スポーツ、世界基準で活躍されている方々の姿勢と生き方を目の当たりにし、そこに行くまでの考え方に触れてきた。

一線級で、プロの世界(みんな一緒、昔から一緒の世界にプロの世界は存在しない)で活躍されている人の共通点は明確。

そのことが好きで好きでたまらないこと。

お金を「目的」として働いていないこと。

人と同じことにまったく興味を示さないこと。

何事も鋼の意志で「やり通す」こと。

行動が素早いこと。(出来たらやる、誰かがやるまでやらない・・はない(笑))

ゴール設定が明確なこと。

など様々な共通点が多い。

戦略は、ゴールが設定されていないと持てない。

戦略がないと作戦と戦術が立てられない。

戦略は「経営戦略」という言葉があるように「どうなりたいか?」だ。

方向性と行き着くレベルの設定がなされていないと、現状から分析しての日々の行動計画が立てられない。

方向性と行き着くレベルの設定がなされて初めて、それに必要な要素が明確になり、資金の調達、人財の育成、ハード、ソフトの準備期間などが期限の定められた「数字」で明確に示される。

それができて初めて現場レベルの、何を、どうやって、どの道具を使って・・などの戦術レベルまで落とし込める。

これを具体的に農業の世界に落とし込むと

まずどういう生き方、いつ引退を考えるのか?を想定し

それまでに残された時間から逆算し、資金計画、人財育成、レベルの設定、必要なハードをいつまでに整備、準備するかの計画が出来る。(土作りはこの部分にあたる)

土作りと作物作りは全く違う。

土作りは全作物共通の事柄なので、土作りの「本当の意味」が理解出来ればどんな作物も作ることが出来る。何を作るかは所詮戦術レベルの話なので、そのもう1階層下の土台が出来れば、種をまくのは自分の好きなものを撒けばいいだけ。

土作りとは、堆肥をいっぱいとか、どんな肥料を使うから美味しくなるからこの肥料は教えないとか・・とかそんな根拠のないいい加減なものじゃないし、1代の感覚で終わるような名人芸だから次世代に受け継がれない。

土作りにも明確なゴールがある。ゴールがあるから計画がたつ。計画には必ず「数字」が伴う。数字がないのは計画にすらならない。

TOYOTAプリウスの開発者が定年退職してもその設計図と仕組みをしっかりと受け継げば、プリウスも更にそこから発展した車も生産し続けられるのと同じこと。

戦術は最後の最後の話。それを達成するには、露地野菜なのか施設園芸なのか、酪農業なのか、加工品なのか、直売なのか、有機栽培なのか・・

だから何を作るのかの手段はあまり重要ではなく、それは時代に応じて、変化に応じて対処すればいい。そのためには「それはそもそも手段だから対応する部分」だという認識を持っていないと「変化」や「対応」することにアレルギーを起こす。

「手段が目的」にあることそれは、枝葉の部分に気をとられて、幹や根っこがやせていることに気付かない。

植物は、「危機を感じる」から種子を残そうとして花をつけて実をならせる。

よく狂い咲きした木は枯れてしまうのと同じこと。花や実なんてまず根を張ってその環境に根が順応し、そこに適した生育を覚えれば幹が育ち、花をつけて実をならせても大丈夫だと本人が判断すればば勝手に花が咲いて、実はなるもの。体が十分に出来ていれば花も大きくなるし、大きな花からは充実した実が出来る。当然、充実した実からは充実した種が出来るから、その種からできる実もまた充実する。うわべだけを「みんなと一緒」に揃えても、根っこと幹をしっかり確認しないと「狂い咲き」と同じ状態になってしまう。

戦略を明確に持たずに、ゴール設定もなく、方向性も持たずスタートしても「どれぐらいのペースで」「どっちに向かって」努力していいのかわからないから、ペース配分を間違って途中でバテるし、そもそもとんちんかんな方向にいくら「頑張って」も「努力」しても「根性」をだしても全部最初から最後まで無駄な努力。

だから、「結果」じゃなくて「時間」を評価の対象を持ち出してくる。

何十年やってるかも何代続いているかもそれは全て「過去」のことなので、今を生きる人間には何の興味もない。

今と未来をどう構築していくために、今からどう行動するのか?

変えられない過去に向かって、過去にすがっても何も変わらないことに誰もついてこないし、何の興味も示さないのはあたり前。だからそういう場所には誰も賛同しない。

明確にゴールを示して、そのゴールを共有し、一歩ずつでもそこに向かっている「結果」と「実感」が「やりがい」を生みだすもの。

その「達成感」と「充実感」が人を動かすし、「結果」がでるから人って自分の「成長」を感じることが出来る。それがそのまま企業、職場のモチベーションや成長に直結する。結果の出ない努力はただの苦痛だし、それに成長を感じることはないのはあたり前。

いくら経営の本を読んでも。人材育成論の本を読んでも、人が育たないのはそこに答えがないと気づかないから。

人がいなくなる場所はつまり「未来」から捨てられつつあるんだよね。

場所や職場はそこにいる「人」がつくるものだから、その思考をいまだに捨てられない「人」も同じこと。

戦略、つまり「自分はどうなりたい」というゴールを持たないスタートを自分が切るということは、ハンドル効かない、ゴールもない、燃料もどこまでもつかわからない準備不足の車を用意して運転させられているようなもの。それを、現場レベルで努力や根性ではなんともならないのはあたり前だけど、若いうちに「どういうゴールを目指すから今足りないものは?いつまでにどうやったそれを補える?」という「頭で考えて対処する」経験をもたないと体力だけで乗り切った頃の話や、時代の変化がゆっくりした感覚が今でも続いていると勘違いする。

ゴール設定と時間は有限だと認識していると、自分のセンスが追い付かなくなったかな?とか老化に気付けるからバトンの受け渡しもスムーズになり、プレイヤーとして通用しなくなっても、アドバイザーとして次世代から必要とされるもの。

そして劣った認識があれば、努力の「方向性」もおのずと変化するもの。

一線級で活躍された「ほんもの」は引退したくても全く引退させてくれないから、今でも次世代から引く手あまた。

プレイヤーとしてではなく、アドバイザーとして。

 

 

 

 

知行合一

知行合一という言葉がある。

これは陽明学の「行わないということは、まだ知らないという事」という意味。

「知らない」というのは、頭でっかちでいるといつも「知識」で「知る」ということを「知った」と認識したがるが、「知らない」というのはそれを行った時の「感覚を知らない」という事を意味する。

分かりやすく言えば、野菜の成分や、ビタミンや、旨味などをいくら成分表示すれど、どこの誰べえさんが、どこでどうやって作った野菜ですよ、だから美味しいんですよと言うよりも、食べてみれば一発で答えは出る。

分析や、情報で美味しい「だろう」と分かっていてもそれを食べたいとは思わなくても、一度美味しいと知ってしまうとそれを手に取るようになる。

つまり、どんな辛いことでも進んで出来るかどうかは、頭で考えているだけで結果を「想像しているだけ」なのか、「実際に体験したか」でその後の行動が異なるもの。

それは、一度経験すると結果を想像しやすくなるから。

これをもとにすると、経験という概念も人によって全く違う。

行動を起こして「感覚として知っている」ことを蓄積する時間を「経験」と意味している「経験」という言葉の意味と、行動を起こさないで「頭の中だけ」で「知ったつもり」になっているだけの時間の蓄積を「経験」という言葉で表現している「経験」という意味は全く異なる。

前者は「伝える手段や言葉、感情表現を持っている」ので「伝わる」のに対し、後者は所詮、本で読んだ、他人から聞いた、googleで検索した、「他人の表現方法の受け売り」でしかないので「伝わらない」。

伝わらないから、共感を呼ばない。

経験するという本当の意味は、与えられることにいくら時間を使って過ごしたかの蓄積じゃなくて、自ら体験する、行動する。その結果「自分の感覚としてどうだったか」の蓄積が本当の経験であり、知ることなんだよね。

感性

コロナで世の中が一変してもうすぐ1年が経とうとしている。

この間、様々な変化が日常生活で起こった。そしてまだその状況は続いている。

我々の産業である農業という現場でもその影響は大きい。

飲食業、観光地の売り上げの減少はそこに材料を供給する我々の出荷もストップしたし、それにまつわる関係者の方々の仕事も減少した。

また、学校給食がストップしたことで給食として供給していた生産者も供給がストップした。

が、1次産業はボタンを押して成長がストップするわけでもないし、ボタンを押したから明日には食べることが出来るトマト、米、アスパラ、キュウリ・・が出来るわけじゃない。20日大根でさえ口に入るまでには種をまいてから約3週間「も」かかる。

医療の現場も食の現場も同様、「命」に係わる現場は、いくらITが進もうと、PCを使いこなせようと「人」と「感性」は必要。

もしそれが不必要でも出来るというのは、生きている相手をみる「感性」が不足している証拠でね、腕のいい一線級の農家ほどいくら規模を大きく経営していても「細かい」仕事をこなすものだ。

「感性」のいい人の共通点は農業に限ったことじゃなくて、スポーツの世界でも、サラリーマンの世界でも全く同じ共通点が必ずあるもの。

感性のいい人は

「人の責任にしない」

「ミスのリカバリーを自分で判断する」

自分で「判断する」というのは全部を自分で決めるという事ではなく、いろんな話や意見や考え方は聞くけれども「最後に決めるのは自分」だから責任転嫁することはない。

そしてそういう人は「今までと違う意見」「自分と違う意見」「そりの合わない人間の意見」ほど聞けるもの。

「好き嫌い」と「正しいか間違っているか」は全く別物だから、その辺の判断能力の高さは別次元で、感情に流されない「勘定」で判断できる能力。

責任転嫁できないのはあたり前だから当然取り組む姿勢も必死だし、真剣だ。

真剣に取り組む「姿勢」がまた共感や応援団を呼び込む。

それと決定的に違うことは次の2点だ。

「自分の目標設定が明確」なことと

「常に、何事に対しても意識」して行動しているという事。

手段が目的だと、目標や行き着く場所はそもそも定まらないのはあたり前。

環境が変化すると加わるベクトルの方向性が変わるが、手段ややり方が目的だからどんどんゴールからズレ続ける。その修正を周りにさせる、依存する。

でも、ゴールだけは自分しか決められないし、そもそもゴールのない行動はとれないのが当たり前だ。

自分がたどり着きたい「方向」に向かっているかどうかを常に「意識」していないと、やっていることが「無駄なこと」なのか「時代感覚からズレているのか」あるいは「ズレ始めているのか」気づくこともない。

常に「意識」して行動していると微妙な変化に対応するだけで済むから、投資も時間も労力も最小で済むし、回復も早い。

が、言うのは簡単だけどこれが一番大変な事。

これをやるにはいつもいつも現場で変化に気付くべく「五感」と「時間」を使うだけの「精神力」と「忍耐力」が必要だし、そもそも使える「五感」になるまでに使う「時間」と「忍耐力」を経て初めて「気づき」が発生し、リカバリー能力や判断能力が身につくものだから。

コロナがまだまだ終息の気配がない以上、今までと同じは続かないのはあたり前。

今までにない判断と、今までにないスピードと、今までにない行動力を持ち合わせていないと、今までにない今からは、自分に味方してくれないな。

やることは相変わらずいっぱいあるけれど、幸い自分の身の周りには「チャレンジし続けてきた人」とそういう人たちは今からも「チャレンジし続ける人」たち。

そういう環境で育んだ感性でないと本当の感性は育たないんだな。

 

 

奪い合えば足らぬ、分け合えば余る

お金も、モノも、土地も、車も・・・

目に見えるものの欲ってきりのないものなんだとつくづく思う。

確かに若い時には「物欲」が必要だと思うし、また欲がないとハングリーさもないと思うし、またそれがパワーになって行動する原動力にもつながっていると思う。

が、これがある一定の年齢を超えているのも関わらず(一般社会で言われる管理職と言われる年齢)奪い合う発想しか持たないのはどうも・・・

先日ダルビッシュ投手の特番をやっていたので観ていた。

彼は日ハム時代に、現ソフトバンクホークス監督の工藤さんからインタビューを受けていた際に

「自分は常にテーマを持って練習していますよ。それは高校時代からそうです。だから練習は手を抜かないし、常に試行錯誤してます。だから練習はしんどいのが当たり前ですよね。試合は、その自分のやったことが通用するかどうかを試す場所だから楽しいですよね。練習と試合は別物なので、試合で使い物にならないとそれは意味がないことです。」

日ハム時代から彼は6種類のスライダーを「意図して」投げ分けが出来ていたし、それを聞いてあの名投手の工藤さんが「信じられない!」とおっしゃていたが、野球をしてピッチャーだった自分には何のことだかレベルの違い(あたり前だけどW)にただただ

プロのレベルはやっぱりすごいなと思った。

その彼がメジャーに行くのが決まった後に、交流戦だったかな?当時広嶋カープのエースのマエケンが打席に立った時にマエケンに対して全球種を投げたそうだ。

それを聞いたときに彼は「粋だな」と思った。

その投球には色んな意味が隠されていて、もの言わずとも伝わったんだとマエケンも後日それを語っていた。

そのダルビッシュ投手は非常に研究熱心で、自己分析能力に長けているのはメジャーの中でも有名な話。今年年齢を重ねてもなおストレートの球速も増し、最多勝投手にもなり、サイヤング投手候補の3人に選ばれたが惜しくもタイトルを逃した。

その彼が特番の中でこういうことを言っていた。

「もう自分が出来ることをいくら隠していても、自分だけの技術にしていても、野球界のためにならないし、野球界が盛り上がらないですよね。自分の技術は何でも教えますよ。これからの若い人達がそれで成長してもらった方が野球界にとってプラスですよね」

あるアスパラ農家も同じことを言っていた。

「アスパラ農家どんどん増えて、おいしいアスパラ作る農家増えればいいんですよ。もっとアスパラが美味しいって分かってもらってどんどん食べてもらった方が消費が増えるし、分母が増える方が産業全体でいいことですよね」

結局のところ、そもそも目指すものが違う。

産業全体が衰退すると、自分だけ儲けようと考える人は、その産業のなかにいる「自分」も衰退している渦の中にいることに気付かない。これは我々の年代は人気スポーツが野球だったものが、Jリーグが発足して野球人気からサッカー人気にシフトし、一時野球離れが起こり当時野球関係者が危機感を募らせていたのと同じ。ファンがいなくなると、観客動員数が減少し、それはグッズの販売や、選手の年俸や、付随する関連企業全体の衰退につながる。

 

自分もそういう人の器の大きな人の「背中」をみてきた。

そういう人たちは、自分が得たものを自分だけのものにせず必ず次世代に送る。

それは送るだけの価値が十分にあり、送られる側もその価値が十分に感じるからこそその人を必要とする。だから次世代がそこに集まるし、そういう人はいくつになっても求められる。学ぶことがいくらでもあるから。

自分がその産業で生き残れないからといって、人の時間を搾取したり、金を奪い合ったところで所詮、金にも、人の時間にも、自分の時間にも必ず限界は訪れる。

産業全体の底上げは、はっきり言ってしまうと「先行く人間の責任」だと思うし、

その逆もまた同様だと思う。

産業全体を底上げしながら、その場所で生き残るかどうかは自分の努力と創意工夫でしかない。いつもいつもは「協力」じゃなくて「実力」

緊急事態や突発的な時にみんなでやるのが「協力」

バブルの感覚がいまだに抜けきらない「奪い合い」

もう奪い合うものは残ってない。

人も金も疲弊している現状は「分かち合い」

分かち合うのは金でもモノでもない「目に見えないもの」だけど

目に見えるものだけで生きてくるとそれが見えない。

 

 

 

思考のバランスのとり方

2021年が始まって早や6日目。毎年毎年、1年が早くなってゆくと感じるのは、自分が年を取ってきた証拠(笑)

自分が若い時に、おっちゃんやおばちゃんがよく口癖のようにそんなこと言ってた、まさにどっぷりとその「おっちゃん」になってる証拠・・

肉体労働はいったんお休みし、今は来年に向けての頭脳労働の期間だ。

肉体労働は所詮「作業」なので、それは「計画」がきっちりと立てられていればただ淡々とそれに従い行動を起こすだけ。しかも現場レベルで大きく修正を行うようではもうその年の営農はその時点で終了する。

その中で必ず起こる「不具合」がほぼ毎日といっていいほど起こるわけだが、それを軌道修正し、計画通りに業務を遂行させること、その過程こそがまさに「仕事」。

つまり、その不具合を「いかに微妙なレベルまで」「いかに早期に」発見できるか否かは、この時期における「細部に渡るまでの作業計画作り」つまり「準備」が全てものをいう。

こんなものは学生時代にある程度高いレベルでスポーツでもやっていた人間はみんな理解していること。本番になって素振りしたからいきなりホームランを打てるわけじゃないし、いきなり思い通りのコースに切れのあるスライダーを投げ込めるわけじゃない。

準備なしでそれが通用しているのであれば、それはその環境に自分が囲まれているだけの話で、プロの世界に「準備不足」は通用しないのはあたり前。

通用しないことや不可抗力は必ず起こるが、「人事を尽くした上で」なのかそうでないのかはお互いにプロならばすぐにわかるもの。

それは、プロのキャッチャーが、バッターがボールを見逃す際の僅かな足が地面につくタイミングや、少しの足の開き、踏み込み方の違いだけで配球の読みを見抜いて行くのと似ている。それを読み切った上でのキャッチャーの判断ミス、或いはピッチャーの失投での被打なのか、なんとなく投げての被打なのか(プロにはなんとなくはないが)で、被打(ミス)した後の対策が異なる。

農業もしかり。

日本「の」北海道「の」空知郡「の」南空知「の」長沼町「の」~区「の」何十年の経験「の」ある一定の限られた思考「の」自分が作っている作物「の」・・・

という風に自ら思考のバランスをどんどん狭めて狭めて考えなくても、

違う職業の、全世界の、自分と違う年代もみんな、地球誕生の歴史からさかのぼって今の農業を観れば、見方が全然違う。

「思考の行き詰まり」は、頭のアンバランスから起こるストレスを呼び込むことで起こる。これは例えると50センチぐらいしかない同じ体重の人でしかバランスのとれないシーソーに乗っているのと似ている。

片方が少し太ったり、もう帰ろうといった瞬間にこのバランスは崩れて終わり。

だから双方がいつもその場から動けないし、お互いを規制し続けないと関係性が維持できないすごく「小さくまとまった生き方」を続ける必要性があるし、すごく危険性が高い。

これが仮に、双方が1キロぐらいある棒に何百人も乗っかることが出来る棒でバランスをとっていれば、たぶん手前の一人や二人がいなくなろうとバランスは崩れない。

これが何十本も放射線状にバランスをとっていればもっとバランスは崩れない。

頭の中も同じこと。

一つの方法にこだわる必要が無くなる。

この方法でやってだめだったら次はこの方法でやってみて、それでもだめならこの方法で試してみて、それでもだめなら・・・

と、最初からいくつもの方法を知っていると、手段を「それしか知らない人」から見るとそれは「失敗」に見えるらしいが、プロの世界では失敗をしないように行動する事自体がもう失敗だという事だし、目標を達成するには何回も何回も失敗を繰り返さないとそこに行きつかないのはそもそも当たり前だし、それを試し「続ける」だけのモチベーションも想定の範囲だろうし・・

失敗なんてものは「目標」を達成するための「単なる過程」でしかない。その過程を繰り返し続けた人にだけ得られるご褒美が本当の意味での「確率論」や「細部を観る感性」だから、少しの変化に早くに気付き、リカバリーできるからこそ毎年の「当たり前平均」なんだよな。

こういう経験をもっていると毎年失敗するたびに目標に近づく「実感」をもって仕事が出来るもの。

転んだように見えて、膝擦りむいたもの同士が地面に這いつくばりながらお互い

ニヤッとしながら立ち上がるたびに「目標に近づくためのヒント」をつかみながら、シレっとポケットの中に入れてるもの。

 

日本一になるやつらは・・

大学時代にアメリカンフットボール部に所属し学んだ最大のこと。

言われれば単純なことだけど、気付かずに一生を過ごさないで良かった。

当時のカスチームだった時にコーチが言ったこと。

「日本一になるやつらはな、日本一アメフトの事が好きやねん。

 お前らちゃうやろ。

 暑かったら、アメフトするより休みたいやろ?

 痛かったら、アメフトするより休みたいやろ?

 眠かったら、アメフトするより休みたいやろ?

 上手く行かんかったら、全部人のせい、グラウンドのせい、雨のせいやろ?

 アメフトするより、デート優先やろ?

 そうやねん、お前らはアメフトよりそっちが優先やから弱いままやねん。

 日本一になるやつらは、お前らと逆で、それ全部捨ててでもアメフトに時間割いてるねんで。お前らが知らんだけの話やねん。

 日本一になるあのチームはな、家でご飯食べながらでもテーブルの下で足でタオルを丸めながらご飯食べてるねんで。何のためか分かるか?足の指の感覚と、強化のためや。あんだけ上手い奴らが、更に素早い動きを目指すからそこまでするねんけど、日本一を目指すあいつらの環境はそれが当たり前や。

 お前らは、今の環境しか知らんからこんなぬるい環境でちょっと練習量が増えたぐらいで、やれしんどいやら、暑いやら、休みたいやら言うてるだけやねん。

 そんなんで上手くなれるわけないやろ。上手い奴らは上手い以上に努力する。それは上手い奴らの相手チームも同じだけのことやってるからや。

 お前らおんなじ4年間でこんなレベルでえーか?えーんやったらそれでええねんで。

 決めるのはお前ら自身やからな」

単純なことではあるが、確かにそうなんだ。

 これは今、仕事においても全く同じことが当てはまる。

そう、好きじゃない人がやっている仕事と、好きでやっている仕事とはやっぱり伝わるもの、結果、仕事の質が全く違う。これは年数なんて何の意味も持たないと実感する。

それは、今でもなおTOP OF TOPの方たちの「姿勢」を肌で感じることができる機会があるからで、こういうチャンスを持たないとこういう感覚を感じることはできない。

 嫌いな上手くならないのはあたり前。

 好きになるまでやれば、楽しくてしょうがないし苦にならないものだけど、途中でやめれば何をやっても同じことの繰り返し。

上手い人は、そのことが好きなのは、スポーツの世界も、造園の世界も、農業の世界も、公務員の世界も、サラリーマンの世界でも共通だわ。