組織形成と地域論と集団スポーツの共通項

最近はYOUTUBEに参加する人が多くなってきてよく見ている。

興味があってよく見ているのは、元プロ野球選手しかも超がつくほどの一流選手たちの

打撃論やチーム作りや選手育成の話。

少し前までこんなことを聞ける機会なんて全くなかった。

興味深いのは一流選手ほど「自分のやるべき仕事」をそのチームの中で分かってやっている(いた)こと。

そして「プロの世界で」自分が2流なら超2流として生きていこうと思ったからプロの世界で生き残り、最後には名球会入りしたしたこと。

など、やはり負けない組織やチームを形成するには

「自分で考えられる人間」

「その時その時にやるべきことを理解している人間」

「その準備をしっかりしている人間」が不可欠なんだと思うし

「育成が上手い」というのが共通している。

学生時代の野球部のコーチはプロ野球から誘いのあった人だった。

そのコーチが一番嫌がったのは「みんな同じ」事と「今までと同じ」事だった。

打ち方や投げ方が少々違っても修正しない。

何故か?

「当たり前だろ?みんな同じじゃーな、一人のピッチャー打たれたら全部打たれるわ。逆に、一人が打てなかったらみんな打てないわ。それぞれのタイミングや感性が違うからチームが成り立つんだよ。みんな同じで勝てるのは少年野球までなんだよ」と。

アメリカンフットボールラグビーもサッカーもバスケットボールも多分同じなんだろう(サッカーとバスケは経験ないから想像だけども)

全員がホームランバッターで勝てるチームは存在しない。所詮打者がヒットを打てる確立は3割で、かつホームランを打てる確立はそれ以下。

場面によってはホームランの確立よりも、ワンヒットで2塁からホームまで帰ってくる足のある人間、確実にバントで送れる人間、確実にセカンドゴロを打てる人間がいないと勝てない場面は必ずある。こういう場面で3割以下の話ではプロの話にはならない。「確実」に仕事をする必要があり、こういう場面での仕事は勝ち試合のどうでもいいホームラン以上の仕事の価値がある。

アメリカンフットボールラグビーも同様。スクラムを組む人間もいれば、状況判断をしてボールをどこに出すか判断する人間、それをスピードで抜き去って点を取る人間と役割分担がきっちりと出来ているからこそ「組織」が成立し勝利する。しかも、練習と同じ状況は本番ではありえないので、常に「考えて行動する」人間でないと使えない。

そしてそういう組織はまた「選手層が厚い」という共通点も持ち合わせる。

ベテランがけがをしても、引退しても必ずその穴を埋める若手の育成が整っているし、その瞬間を若手も虎視眈々と狙っている。まあ、そういう組織は仲良しごっこは無い。ほんとのプロは、仲良しごっこが組織を弱体化させることを「最初から」知っているから。

昔から「いい子いい子はどうでもいい子」「いい子いい子は都合のいい子」って言うんでね。その小さな社会で「いい子」でも、それを取り巻く環境の社会では「いい子」は通用しない。ましてもうこの時代にわざわざグローバル化なんてすでに死後に近いぐらい「当たり前」の時代には、視野を広く持って、俯瞰的に自分が生き残れるポジショニングを常に確認して意識してその場所を確保しておかないと、スポーツの世界同様ビジネスの世界でも、スピードもセンスも感覚も全く異次元のレベルで戦う時代になっている。

それをハイレベルで戦うことを「楽しい」と思えるのか、それを「苦しい」と思うのか?

それはそもそもの「知っている」基準や「環境」で準備してきた差だろうし、プレイヤーとしてではなく、マネージャーやコーチングで「育成」も楽しめるか否かの差なんだろうか?

いつまでもプレイヤーとしてちやほやしてもらえる時代なんて長くは続かない。

プレイヤーとして先頭集団を「引っ張ている時は」後ろを走っている人間は「やっぱりすげーな!」と思ってるけども、「どうでもいい子や都合ののいい子」に気づかいさせてお山の大将でいても俯瞰的に物事を判断できればプレーヤーとしての限界に気付く。

本当のプロの世界は実力だから、試合に出れないし、若手がベテランを押し出して行く前に道を譲り引退し、また育成が充実して行くというサイクルが形成される。

本当に実力で勝ち抜いてきた人間だけが勝ち方を知っているから、勝ち方を知っていないとプロの世界では「結果」が求められるから若手の育成ができない。コーチや監督になって若手が育つ楽しみを味わえるのは僅かなんだろうな・・。

 

正直言うと・・・

今年も1月が終わりました・・とか、今年もあと1週間になりましたとか・・

言ってきたけれど、実は・・

そんなこと思ったことは全くないわけで(笑)

毎年、紅白歌合戦とか格闘技やBOXINGとかがあるので「あ、もう大みそかか・」

とか思ってしまうし、一応新年を迎えるのですべての掃除とかを済ましておかないとダメだと思うけれども、多分普段からすごくきっちりしている人ならわざわざ大掃除とか洗車とかって年末になったからと言って騒いだりしないんだろうなと思う。

忙しさにかこつけて普段やってないことをだから奇麗にしておかないと1年の帳尻が合わないと思うからやってる。

だから正直1月1日というよりも、毎年12月32日、33日・・と続いてるような感覚で、1月31日がわが社の決算なのでそれが終了して初めて自分は年末が来た感じかな。

でもそれも自分にとってはすごく小さな時間軸・・実は。

自分が30歳で農業を始めるときに65歳で一線を退こうと思って始めたので、365日×35年でカウントダウンが始まったような感じだった。つまり12775日から自分の目標設定の逆算が始まった感じだった。

そして今、20年が経過したので7331日が経過し、あと残りもう5444日しか残っていない感覚。そう思えば残り少なくなったなと思う。

目標到達した後、余裕をもって「いつ引退しようかな?」はいいけれど、体も頭も動かなくなってからラストスパートに必死になるのは辛い・・。

同じ道のりなら、体力も気力も集中力もあるうちにアドバンテージをとっておいて、後は休みながらでも、さぼりながらでも余裕で楽しみながらゴールしたいもの。

逆算していると、本当に時間が惜しい。

自分のやりたいことはもちろんだが、まだまだ会いたい人、行ってみたいところ、そしてお世話になった人と過ごす時間や、自分の遊びの時間・・全然時間が足りないな。

でも本当にやりたいことをするために、まずやらないといけないことを何十年もかけてやってしまう。

ま、だいたいやりたくないことは、絶対にやらないとダメなことだし、やりたいことは、やってもやらなくてもいいことなんだよな。

だから、体力のあるうちにまず片づけてしまう事をずーーーっとやってきた。

やらないといけないことをずーーーーっとやってきた。

もういずれにしろ、体力も頭も成長しないだろうから、自分がしたくなくても勝手にペースダウンしてくやろ。

ま、望んでいなくても必ずみんな運動会で前のめりにこけたり、老眼になってくように自分もすこぶる順調だと感じる。

久々のナイトランしただけで、膝痛いなんて(笑)・・考えられないけど、まこれが順調な証やね。ということが認識できたので、これ以上後退出来ないので今を維持するためにもう少しまじめに走ろうと思う。

 

なんとかしてくれよ・・って

少し前に女性のコンサル業務をされている方とお話しした時に言っていたこと。

「よくね、なんとかしてくれ!って相談あるんですけど・・」って・・。

これを聞いたときに

「それおかしくない?何とかするのは経営者の方であって、こうしたいんだけど何が違うのかな?とか、こういうものを作りたいと思うんだけどどこにいけばいいのかな?とか、こういう話を聞きたいんだけど誰にきけばいいんだろう?とかが普通でしょ?だってそういう人のなんとかするってあなたに人生のかじ取りしてくれって言ってるんだもんね?」って返すと

「あーやっぱりそうですよね(笑)この話分かる人は必ず、どういうことがしたいからっていう自分の意志や方向性を示した上で私にマッチングなり、アドバイスなりを求めてこられるんですよ。だから私は客観的に話をするだけですし、そこが分かっている経営者の方は自分では気づかない客観的視点を求めているので大体私の意見に耳を傾けていらっしゃいますね」と。

どんなことにも当てはまる共通点で、

「誰に相談したから」

「誰とあったから」

「こういうものが建ったから」

「こういう施設が出来たから」

で変わるのは、自分以外が変わるだけで、自分の中の「誰かに何かをやってもらおう」という意識は全く変わっていないことに気付かない。

なにかが出来て変わるのは、そもそも何かが出来なくても、誰かに依存しなくても少しずつでも前に進む努力をしていた人の努力の導火線に火が付くきっかけになったり、もともと集客力があるところが更に集客力が増えるだけの話でしかない。

自分が主体となって行動しないのに、誰も賛同しないし、応援もされない。

賛同される人、応援される人には必ず共通点がある。

それは「人の目を気にしながら形だけ上手くやろうとする」んじゃなくて

   「上手く行くか行かないかよりも、がむしゃらに本気でやり続ける姿勢」があるかないかだけ。

オリンピックやラグビーや野球でもサッカーでも、人が共感して応援して涙流すぐらい心動かされるのは、小ずるく上手くやってる姿じゃなくて、汗かいて体張って限界まで一生懸命やる姿に感動を覚えて応援したくなるもの。だから負けたチームにも同じだけの称賛が与えられるし、その姿をみて新たな応援団も増えるもの。

だけど小さいころから自分が先頭に立って一番大変な風をうけて突き進む経験をした事が無くて、人の顔色をうかがいながら「上手く、怒られないように」行動してくると、痛みや辛いことを経験する事が出来なくなる。

でもその先に待っているのは、先頭に立って何度も何度も挫折や失敗を味わってでも突き進んだ人間だけが味わえる「一番おいしいところ」じゃなくていつも「そのあとの食べ残し」だ。先頭に立たなくてもチャンスはやってくる。だけど何かが大きく変わるだけのチャンスはやってこない。その大きなチャンスは前で全部持っていかれているから、その残り物ではいつまでも何も変わらない。

最初から何かを犠牲にする覚悟で行動する人と、その覚悟を持たずになんとなく始めた人では、何かにぶちあった時でも「まーこんなのそもそもあることでしょ?」ってそこからがやっとスタートだと考える思考能力なのか、「~がないと出来ない、~がやってくれないから出来ない」とすでにそこが終わりの思考能力なのか全く違う。

前者はその時点で「ワクワク」と未来が始まるし、後者は「絶望」と過去の栄光にすがりだす。こういうことを繰り返していると、最初の壁に当たった時点でどれぐらいの割合でリタイヤして次の壁までやってくるのがどれぐらいで、又次の壁に当たった時にリタイする割合ってなんとなく分かってくるもの。

やらないという決断は「他人がきめたこと」じゃなくて「自分がきめたこと」だから、それが習慣になるともうずっとやらなくなって、いつのまにか出来なくなってゆく。

どうせどんどん年を取っていけば、体力もセンスも置いていかれるのはあたり前だし、どれだけ築いた財産も棺桶には入れてもらえないしな(笑)

それを「最初から」分かっていれば、やっぱり「なんとしてでも」自分がやるよね。

プロとアマの明確な違い

プロとアマチュアには明確な違いが存在するのはあたり前のこと。

プロはその「仕事の成果」で飯を喰っているのに対して

アマは「仕事の成果」で飯を喰っているわけじゃない。

ということは、「出た成果」の良し悪しによって食える飯の量や質が変わるのはあたり前の話。

良し悪しがあるということはつまり、「同じじゃない世界」だという事。

「結果の差は準備の差」と言われる様に、それは全て「準備の差」だという事。

じゃあ「準備」って何なのか?

端的に言ってしまうと、それで飯を喰っているということは「判断」や「責任」そして「結果」を最後の最後に「他者」にあるのはアマだし、「自分」にあるのはプロだと思う。その「判断基準」や「責任がとれなくなった時」に引退するのを「自分で」決められる日までその「準備をし続けている」のを準備だと思う。

結果の責任を負うってことは、正直しんどいもの。だけどそれがそもそも当たり前だからそこに「求める結果を出すための努力」が存在するし、それが仕事。出来ないのは自分の能力不足だから、それはプロとして「目標設定レベルを落とす」か「努力の水準を上げる」の2択のみしか存在しない。

いくらプロであっても、完璧など存在しない。それは生きてる世界がプロだからであって、アマは責任が自分にないしそれで飯を喰っているわけじゃないから「成果が出ているように勘違いする」

いくらダルビッシュ投手でも、田中マー君でも、柳田選手でも・・いつも3冠王完全試合をするわけじゃない。ぼこぼこに打たれることもあるし、3三振もある。結果は良くても悪くても自分に返ってくる世界は常に孤独だし、競争社会で生きてくわけだから傷のなめ合いなど存在しない。仲良しごっこは狭い世界での傷のなめ合いで、それは小さくまとまったアマの世界でしか通用しないもので、最終的にはそれが足の引っ張り合いに繋がってゆくことに気付かない。

9回ツーアウト満塁で1打逆転の状態でにいつもそこにいるのがチームの4番だし、そこで打つのがチームの柱の仕事だし、エースや抑えの切り札はそれを抑えることが仕事。

もちろん毎回抑えられるわけじゃないし、毎回打てるわけなどありえない。

1流のバッターでさえ、3冠王でさえ、首位打者でさえ打てる確立なんて所詮3割で、7割は打てない。だからこそ期待感が高まるし、観ていてはらはらするもの。逆にピッチャーの側からすると7割は抑えて当たり前だけど、守る側にはエラーも存在するし悪送球も存在するので1つのミスも許されない。

この場面で結果の前に「よし、俺に打たせろ!」とか「よし、俺が抑えてくる!」って言える奴がプロとしての準備をしてきた人間で、この場面で「ピッチャー交代してもらえます?」「代打出してもらえます?」ならもうチームにとっては要らない。

よく交代させられたピッチャーがベンチでグローブ叩きつけたり、ベンチ殴って骨折したりしてるけど(結果チームに迷惑かけるからやっちゃダメだけど)あれぐらいの悔しさがあるのはやっぱりそれだけ練習して準備してきたからで、自分に対しての不甲斐なさの現れ。

こういうプロの真剣勝負だから観ている側も観に行きたいし、期待値も上がるし、ハラハラドキドキさせられる。プロの世界は毎年、イキのいい甲子園の優勝投手や4番バッターが入ってくるので生き残りは必死だし、そこに残れるからプロなんだ。

残るから自分で引退を決めることが出来るし、引退を惜しまれるもの。

でもそれを楽しめるぐらいまで実力で「安定」したレベルになった人だけが本当の「ベテラン」としてそのプロの世界に残り続けて若手の育成をする。体でも心でもそして結果でもプロの水準を満たしているのが「真のベテラン」で、そこから「体」と「結果」が伴わなくなった時が引退。

でも真のプロは「心」があるので若手がいろんなものを聞きに集まってくる。

イチロー選手が言うてはったのがまさにこれやね。

「過程は人を作る上で必要なこと」

農業の世界でも同じやね。

結果はごはん食べてく上で必須やけど、過程と根拠を蓄積しないと次が育たんね。

 

 

 

努力と根性と計画性のなさと

若いうちにいわゆる「一流の世界」の人と接する経験があるのとないのでは、その後の自分に与える「人生観」が全く違うんだろうなと感じる。

自分は幸運なことに金メダリストと同じグラウンドで練習する姿を毎日見たり、日本一になる集団、プロのスポーツ選手で飯食う人、造園や財界、飲食、スポーツ、世界基準で活躍されている方々の姿勢と生き方を目の当たりにし、そこに行くまでの考え方に触れてきた。

一線級で、プロの世界(みんな一緒、昔から一緒の世界にプロの世界は存在しない)で活躍されている人の共通点は明確。

そのことが好きで好きでたまらないこと。

お金を「目的」として働いていないこと。

人と同じことにまったく興味を示さないこと。

何事も鋼の意志で「やり通す」こと。

行動が素早いこと。(出来たらやる、誰かがやるまでやらない・・はない(笑))

ゴール設定が明確なこと。

など様々な共通点が多い。

戦略は、ゴールが設定されていないと持てない。

戦略がないと作戦と戦術が立てられない。

戦略は「経営戦略」という言葉があるように「どうなりたいか?」だ。

方向性と行き着くレベルの設定がなされていないと、現状から分析しての日々の行動計画が立てられない。

方向性と行き着くレベルの設定がなされて初めて、それに必要な要素が明確になり、資金の調達、人財の育成、ハード、ソフトの準備期間などが期限の定められた「数字」で明確に示される。

それができて初めて現場レベルの、何を、どうやって、どの道具を使って・・などの戦術レベルまで落とし込める。

これを具体的に農業の世界に落とし込むと

まずどういう生き方、いつ引退を考えるのか?を想定し

それまでに残された時間から逆算し、資金計画、人財育成、レベルの設定、必要なハードをいつまでに整備、準備するかの計画が出来る。(土作りはこの部分にあたる)

土作りと作物作りは全く違う。

土作りは全作物共通の事柄なので、土作りの「本当の意味」が理解出来ればどんな作物も作ることが出来る。何を作るかは所詮戦術レベルの話なので、そのもう1階層下の土台が出来れば、種をまくのは自分の好きなものを撒けばいいだけ。

土作りとは、堆肥をいっぱいとか、どんな肥料を使うから美味しくなるからこの肥料は教えないとか・・とかそんな根拠のないいい加減なものじゃないし、1代の感覚で終わるような名人芸だから次世代に受け継がれない。

土作りにも明確なゴールがある。ゴールがあるから計画がたつ。計画には必ず「数字」が伴う。数字がないのは計画にすらならない。

TOYOTAプリウスの開発者が定年退職してもその設計図と仕組みをしっかりと受け継げば、プリウスも更にそこから発展した車も生産し続けられるのと同じこと。

戦術は最後の最後の話。それを達成するには、露地野菜なのか施設園芸なのか、酪農業なのか、加工品なのか、直売なのか、有機栽培なのか・・

だから何を作るのかの手段はあまり重要ではなく、それは時代に応じて、変化に応じて対処すればいい。そのためには「それはそもそも手段だから対応する部分」だという認識を持っていないと「変化」や「対応」することにアレルギーを起こす。

「手段が目的」にあることそれは、枝葉の部分に気をとられて、幹や根っこがやせていることに気付かない。

植物は、「危機を感じる」から種子を残そうとして花をつけて実をならせる。

よく狂い咲きした木は枯れてしまうのと同じこと。花や実なんてまず根を張ってその環境に根が順応し、そこに適した生育を覚えれば幹が育ち、花をつけて実をならせても大丈夫だと本人が判断すればば勝手に花が咲いて、実はなるもの。体が十分に出来ていれば花も大きくなるし、大きな花からは充実した実が出来る。当然、充実した実からは充実した種が出来るから、その種からできる実もまた充実する。うわべだけを「みんなと一緒」に揃えても、根っこと幹をしっかり確認しないと「狂い咲き」と同じ状態になってしまう。

戦略を明確に持たずに、ゴール設定もなく、方向性も持たずスタートしても「どれぐらいのペースで」「どっちに向かって」努力していいのかわからないから、ペース配分を間違って途中でバテるし、そもそもとんちんかんな方向にいくら「頑張って」も「努力」しても「根性」をだしても全部最初から最後まで無駄な努力。

だから、「結果」じゃなくて「時間」を評価の対象を持ち出してくる。

何十年やってるかも何代続いているかもそれは全て「過去」のことなので、今を生きる人間には何の興味もない。

今と未来をどう構築していくために、今からどう行動するのか?

変えられない過去に向かって、過去にすがっても何も変わらないことに誰もついてこないし、何の興味も示さないのはあたり前。だからそういう場所には誰も賛同しない。

明確にゴールを示して、そのゴールを共有し、一歩ずつでもそこに向かっている「結果」と「実感」が「やりがい」を生みだすもの。

その「達成感」と「充実感」が人を動かすし、「結果」がでるから人って自分の「成長」を感じることが出来る。それがそのまま企業、職場のモチベーションや成長に直結する。結果の出ない努力はただの苦痛だし、それに成長を感じることはないのはあたり前。

いくら経営の本を読んでも。人材育成論の本を読んでも、人が育たないのはそこに答えがないと気づかないから。

人がいなくなる場所はつまり「未来」から捨てられつつあるんだよね。

場所や職場はそこにいる「人」がつくるものだから、その思考をいまだに捨てられない「人」も同じこと。

戦略、つまり「自分はどうなりたい」というゴールを持たないスタートを自分が切るということは、ハンドル効かない、ゴールもない、燃料もどこまでもつかわからない準備不足の車を用意して運転させられているようなもの。それを、現場レベルで努力や根性ではなんともならないのはあたり前だけど、若いうちに「どういうゴールを目指すから今足りないものは?いつまでにどうやったそれを補える?」という「頭で考えて対処する」経験をもたないと体力だけで乗り切った頃の話や、時代の変化がゆっくりした感覚が今でも続いていると勘違いする。

ゴール設定と時間は有限だと認識していると、自分のセンスが追い付かなくなったかな?とか老化に気付けるからバトンの受け渡しもスムーズになり、プレイヤーとして通用しなくなっても、アドバイザーとして次世代から必要とされるもの。

そして劣った認識があれば、努力の「方向性」もおのずと変化するもの。

一線級で活躍された「ほんもの」は引退したくても全く引退させてくれないから、今でも次世代から引く手あまた。

プレイヤーとしてではなく、アドバイザーとして。

 

 

 

 

知行合一

知行合一という言葉がある。

これは陽明学の「行わないということは、まだ知らないという事」という意味。

「知らない」というのは、頭でっかちでいるといつも「知識」で「知る」ということを「知った」と認識したがるが、「知らない」というのはそれを行った時の「感覚を知らない」という事を意味する。

分かりやすく言えば、野菜の成分や、ビタミンや、旨味などをいくら成分表示すれど、どこの誰べえさんが、どこでどうやって作った野菜ですよ、だから美味しいんですよと言うよりも、食べてみれば一発で答えは出る。

分析や、情報で美味しい「だろう」と分かっていてもそれを食べたいとは思わなくても、一度美味しいと知ってしまうとそれを手に取るようになる。

つまり、どんな辛いことでも進んで出来るかどうかは、頭で考えているだけで結果を「想像しているだけ」なのか、「実際に体験したか」でその後の行動が異なるもの。

それは、一度経験すると結果を想像しやすくなるから。

これをもとにすると、経験という概念も人によって全く違う。

行動を起こして「感覚として知っている」ことを蓄積する時間を「経験」と意味している「経験」という言葉の意味と、行動を起こさないで「頭の中だけ」で「知ったつもり」になっているだけの時間の蓄積を「経験」という言葉で表現している「経験」という意味は全く異なる。

前者は「伝える手段や言葉、感情表現を持っている」ので「伝わる」のに対し、後者は所詮、本で読んだ、他人から聞いた、googleで検索した、「他人の表現方法の受け売り」でしかないので「伝わらない」。

伝わらないから、共感を呼ばない。

経験するという本当の意味は、与えられることにいくら時間を使って過ごしたかの蓄積じゃなくて、自ら体験する、行動する。その結果「自分の感覚としてどうだったか」の蓄積が本当の経験であり、知ることなんだよね。

感性

コロナで世の中が一変してもうすぐ1年が経とうとしている。

この間、様々な変化が日常生活で起こった。そしてまだその状況は続いている。

我々の産業である農業という現場でもその影響は大きい。

飲食業、観光地の売り上げの減少はそこに材料を供給する我々の出荷もストップしたし、それにまつわる関係者の方々の仕事も減少した。

また、学校給食がストップしたことで給食として供給していた生産者も供給がストップした。

が、1次産業はボタンを押して成長がストップするわけでもないし、ボタンを押したから明日には食べることが出来るトマト、米、アスパラ、キュウリ・・が出来るわけじゃない。20日大根でさえ口に入るまでには種をまいてから約3週間「も」かかる。

医療の現場も食の現場も同様、「命」に係わる現場は、いくらITが進もうと、PCを使いこなせようと「人」と「感性」は必要。

もしそれが不必要でも出来るというのは、生きている相手をみる「感性」が不足している証拠でね、腕のいい一線級の農家ほどいくら規模を大きく経営していても「細かい」仕事をこなすものだ。

「感性」のいい人の共通点は農業に限ったことじゃなくて、スポーツの世界でも、サラリーマンの世界でも全く同じ共通点が必ずあるもの。

感性のいい人は

「人の責任にしない」

「ミスのリカバリーを自分で判断する」

自分で「判断する」というのは全部を自分で決めるという事ではなく、いろんな話や意見や考え方は聞くけれども「最後に決めるのは自分」だから責任転嫁することはない。

そしてそういう人は「今までと違う意見」「自分と違う意見」「そりの合わない人間の意見」ほど聞けるもの。

「好き嫌い」と「正しいか間違っているか」は全く別物だから、その辺の判断能力の高さは別次元で、感情に流されない「勘定」で判断できる能力。

責任転嫁できないのはあたり前だから当然取り組む姿勢も必死だし、真剣だ。

真剣に取り組む「姿勢」がまた共感や応援団を呼び込む。

それと決定的に違うことは次の2点だ。

「自分の目標設定が明確」なことと

「常に、何事に対しても意識」して行動しているという事。

手段が目的だと、目標や行き着く場所はそもそも定まらないのはあたり前。

環境が変化すると加わるベクトルの方向性が変わるが、手段ややり方が目的だからどんどんゴールからズレ続ける。その修正を周りにさせる、依存する。

でも、ゴールだけは自分しか決められないし、そもそもゴールのない行動はとれないのが当たり前だ。

自分がたどり着きたい「方向」に向かっているかどうかを常に「意識」していないと、やっていることが「無駄なこと」なのか「時代感覚からズレているのか」あるいは「ズレ始めているのか」気づくこともない。

常に「意識」して行動していると微妙な変化に対応するだけで済むから、投資も時間も労力も最小で済むし、回復も早い。

が、言うのは簡単だけどこれが一番大変な事。

これをやるにはいつもいつも現場で変化に気付くべく「五感」と「時間」を使うだけの「精神力」と「忍耐力」が必要だし、そもそも使える「五感」になるまでに使う「時間」と「忍耐力」を経て初めて「気づき」が発生し、リカバリー能力や判断能力が身につくものだから。

コロナがまだまだ終息の気配がない以上、今までと同じは続かないのはあたり前。

今までにない判断と、今までにないスピードと、今までにない行動力を持ち合わせていないと、今までにない今からは、自分に味方してくれないな。

やることは相変わらずいっぱいあるけれど、幸い自分の身の周りには「チャレンジし続けてきた人」とそういう人たちは今からも「チャレンジし続ける人」たち。

そういう環境で育んだ感性でないと本当の感性は育たないんだな。