論語の教え

志学 15歳 私は15歳の時に学問で身を立てようと決心し、

而立 30歳 30歳に学問の基礎ができて、自立できるようになり、

不惑 40歳 40歳になると心に迷いがなくなり、

知命 50歳 50歳の時に天が自分に与えた使命を自覚し、

耳順 60歳 60歳になると耳に入る言葉は何でも素直に受け入れられるようになり 

従心 70歳 70歳になると自分が思うことをしても、人の道を踏み外さなくなった  

とは、孔子が弟子に語った言葉。

時代が変化しようと、場所が変わろうと「本質」の部分は変わらない。

ということは、15歳で学問を志す事が無いと、30歳になっても自立できずに、40歳になっても周りの意見や生き方に惑わされ、50歳になっても自分の生きる方向性、自分がなすべきことを知ることもなく、60歳になっても狭い世界観や、過去に捉われたまま頭の引き出し増えず、時代感覚に取り残されるがゆえに「あーなるほど、そうなんだ!」の一言が言えず、70歳になってもとんちんかんな事を言い続けるから、学びに来る人がいないという事か・・

どんなことも、基礎がズレているものの上に築いても、崩れる場所は基礎の部分。毎回崩れる場所は同じ。それに気づけば、分からないことはすぐに聞くし、やり直すなら今すぐやり直す。

建物も、スポーツも「本質」の部分は変わらない。

手段に捉われても、手段は時代に応じて変化する。固定電話はスマホに変わったが、遠方と会話するという「目的」は変わらないし、情報収集も、ネットの普及で格段に向上した。今、辞書をひく人がどれだけいるのだろうか?

ただ、便利になり、容易に結果だけを手に入れる事でプロセスを築く習慣がなくなったことで、その過程において「思考すること」「失敗する事」「リカバリー能力を向上させること」「協力する事」「当たり前の事は何一つないこと」などを認識する機会は失われて来ているんだろうなと思う。

学ぶべき人を持つということは幸せな事。

コロナで世界も一変した。世界が変わるということは、一瞬にして必要と不必要が振り分けられるという事。まさに、ブレブレの基礎の上に築いてきたものは変化に対応すべき、踏ん張った瞬間に足元が滑って前に進めずにその場に置いて行かれる。

その時に、変化を許容し認識しないと協力者や賛同するものは得られない。

始まりの始まりに、どういう環境に身を置くかは大きいもの。