思考のバランスのとり方

2021年が始まって早や6日目。毎年毎年、1年が早くなってゆくと感じるのは、自分が年を取ってきた証拠(笑)

自分が若い時に、おっちゃんやおばちゃんがよく口癖のようにそんなこと言ってた、まさにどっぷりとその「おっちゃん」になってる証拠・・

肉体労働はいったんお休みし、今は来年に向けての頭脳労働の期間だ。

肉体労働は所詮「作業」なので、それは「計画」がきっちりと立てられていればただ淡々とそれに従い行動を起こすだけ。しかも現場レベルで大きく修正を行うようではもうその年の営農はその時点で終了する。

その中で必ず起こる「不具合」がほぼ毎日といっていいほど起こるわけだが、それを軌道修正し、計画通りに業務を遂行させること、その過程こそがまさに「仕事」。

つまり、その不具合を「いかに微妙なレベルまで」「いかに早期に」発見できるか否かは、この時期における「細部に渡るまでの作業計画作り」つまり「準備」が全てものをいう。

こんなものは学生時代にある程度高いレベルでスポーツでもやっていた人間はみんな理解していること。本番になって素振りしたからいきなりホームランを打てるわけじゃないし、いきなり思い通りのコースに切れのあるスライダーを投げ込めるわけじゃない。

準備なしでそれが通用しているのであれば、それはその環境に自分が囲まれているだけの話で、プロの世界に「準備不足」は通用しないのはあたり前。

通用しないことや不可抗力は必ず起こるが、「人事を尽くした上で」なのかそうでないのかはお互いにプロならばすぐにわかるもの。

それは、プロのキャッチャーが、バッターがボールを見逃す際の僅かな足が地面につくタイミングや、少しの足の開き、踏み込み方の違いだけで配球の読みを見抜いて行くのと似ている。それを読み切った上でのキャッチャーの判断ミス、或いはピッチャーの失投での被打なのか、なんとなく投げての被打なのか(プロにはなんとなくはないが)で、被打(ミス)した後の対策が異なる。

農業もしかり。

日本「の」北海道「の」空知郡「の」南空知「の」長沼町「の」~区「の」何十年の経験「の」ある一定の限られた思考「の」自分が作っている作物「の」・・・

という風に自ら思考のバランスをどんどん狭めて狭めて考えなくても、

違う職業の、全世界の、自分と違う年代もみんな、地球誕生の歴史からさかのぼって今の農業を観れば、見方が全然違う。

「思考の行き詰まり」は、頭のアンバランスから起こるストレスを呼び込むことで起こる。これは例えると50センチぐらいしかない同じ体重の人でしかバランスのとれないシーソーに乗っているのと似ている。

片方が少し太ったり、もう帰ろうといった瞬間にこのバランスは崩れて終わり。

だから双方がいつもその場から動けないし、お互いを規制し続けないと関係性が維持できないすごく「小さくまとまった生き方」を続ける必要性があるし、すごく危険性が高い。

これが仮に、双方が1キロぐらいある棒に何百人も乗っかることが出来る棒でバランスをとっていれば、たぶん手前の一人や二人がいなくなろうとバランスは崩れない。

これが何十本も放射線状にバランスをとっていればもっとバランスは崩れない。

頭の中も同じこと。

一つの方法にこだわる必要が無くなる。

この方法でやってだめだったら次はこの方法でやってみて、それでもだめならこの方法で試してみて、それでもだめなら・・・

と、最初からいくつもの方法を知っていると、手段を「それしか知らない人」から見るとそれは「失敗」に見えるらしいが、プロの世界では失敗をしないように行動する事自体がもう失敗だという事だし、目標を達成するには何回も何回も失敗を繰り返さないとそこに行きつかないのはそもそも当たり前だし、それを試し「続ける」だけのモチベーションも想定の範囲だろうし・・

失敗なんてものは「目標」を達成するための「単なる過程」でしかない。その過程を繰り返し続けた人にだけ得られるご褒美が本当の意味での「確率論」や「細部を観る感性」だから、少しの変化に早くに気付き、リカバリーできるからこそ毎年の「当たり前平均」なんだよな。

こういう経験をもっていると毎年失敗するたびに目標に近づく「実感」をもって仕事が出来るもの。

転んだように見えて、膝擦りむいたもの同士が地面に這いつくばりながらお互い

ニヤッとしながら立ち上がるたびに「目標に近づくためのヒント」をつかみながら、シレっとポケットの中に入れてるもの。