成長分岐点

様々な分野の、様々な世代の、様々な思考の人たちと話すことで自分の思考や方向性が明確になるというのはよくあること。

だがこれは、「様々な分野」「様々な世代」「様々な思考」と触れるという経験をもった人にしかわからないことだし、それによってなぜ?ぼやけていた思考や方向性が明確になるのか?とうことも、それをいつも意識し解決策を模索し、明確化したいという意思を持っているからそのタイミングが訪れるが、それも体験した人でないと分からない。まさに「知号合一」。こういう「実体験」を繰り返すことでなんとなく大局的に物事を捉えることが出来るようになってきて、こういうことを解決するには大体このぐらいの労力や時間が必要だろうなとか、この案件はこういう分野の人に相談してきたらヒントがありそうだなと嗅覚が育ってくる。

つまり実体験が蓄積されて、確率が向上して行き、精度が増す。これが時間短縮につながりいわゆる「要領」がよくなる。

本当の「経験」とはつまりこういう事で、長く生きているから経験値が増すわけじゃなくて、自分で設定した「解」に対し、自分で仮説を立て、自分でその過程を考えた後、失敗した回数と、それを修正した回数の多さ。

だから人が想定した解や、人が決めた解や、いつまでも人の模倣を繰り返していても最初のうちは「経験値」は向上するが、ある一定水準まで達すると経験値は急激に蓄積されなくなる。つまりそこからの成長は「それぞれの解の設定」にあるにもかかわらず、人生において自分で自分の「解」を設定した経験を持たないとそこで行き詰る。

行き詰まり、未来を想定できなくなるから「過去の肯定」でしかなくなり、今度は過去に向かって歩みだす。

一方で、いくつになっても未来に歩を止めない大先輩方もいらっしゃいますが、まさにvintageのクラッシックカーに最新のエンジンやAIパイロット技術を備えた車の様な存在でしびれるし、惹かれる。

両者の分岐点は明確。

前者は「知っていること」以外を受け付けない(受け付けられない)、または自分の過去の成功体験から抜け出せないのに対し、後者は「知らないこと」も含めて「知っていること」も知らないこととして考えるし、過去の成功体験に捉われずにより良い未来を常に模索し続ける。

肉体的な成長と頭の成長は必ずしも比例しないが、前者のような思考でいると、肉体の前に頭が老化してしまう。頭の老化は行動の範囲を縮めてしまうので、水戸黄門のテレビが面白くなるように、同じ時間割で、同じところの入浴シーンと、善と悪で必ず善が勝つというお決まりパターンに安心するという思考に落ち着く。けれども、安心していても世の中はそんな単純な構成要素で成り立っているわけではないので、安心感はやがて危機を呼び込んでくる。

まあ分かりやすく言えば、紋所を見せているときに戦車で乗り込んでくる悪い奴がでてくるとそもそものドラマの設定が終わってしまうのと同じだが、現実社会のコロナは紋所や現在の医療のレベルには合わせてくれないのと同じこと。つまりテレビ局側が視聴率をとるために「終わらせない仕組みや設定」をしているに過ぎない。

どんどん「解」が定まらない時代に突入してくると、この「大局観」をもっているのかどうかの差が大きく浮き彫りになるような気がする。

大局観は目に見えないものだが、そもそもの行動を起こす上での「確率論」で明らかに差がつく「根拠の分母」と同じことで、これはノムさんID野球と同じこと。

「読み」は「あてずっぽ」とは大きく違って「根拠に裏打ちされた確立論」

答えがない世の中で成長を続けていくためには、無限の失敗ではPhysicalの前にmentalが持たない。