あたり前を継続できる思考

凡事徹底という言葉がある。

何でもないあたり前のことを「徹底的に」行う事という意味。

何でもないことをやることは簡単だけど、それを徹底的にやることは難しい。

まさに、言うは易し行うは難しとはこのことだが、ここがまさに思考分岐点。

難しいから「やらない」のか、難しいということは他の人がやらないから「やる価値がある」とそこにやりがいを感じるのか。

じゃあ、ここで問題になるのがよく言われる「能力」というやつだけど、はっきり言って自分は個人の能力に多少の差はあれど、殆どそんなものはないと思っている。

結果を出すのに必要な最大要因は、文句を言っている口じゃなくて、行動する体だし、他社依存しない心だし、やり続けられる意思で、これは全部「自分の決定事項」だからだ。これがないと「そもそも」始まらない。

そして、行動を起こす次に必要な能力は「数学的思考」だと思う。

目標設定すると、そこに行きつくまでには様々な乗り越えなくてはならない過程が存在するが、そのすべては「素因数の集合体」で成り立っていると気づける思考があると、一見困難に見える事象を素因数に分解して「当たり前の集合体」にしてしまう。

どんなことも素因数に分解する事が出来れば、当たり前の集合体でしかないが、目標設定が高ければ高いほどその素因数の数が膨大になって行くので、数学的思考がないと素因数に分解できずに複雑化した困難なことだと認識したまま行動を起こす。すると、失敗や困難に直面した時にその原因が分からないので、「何を修正すればいいのか?」「どこを修正すればいいのか?」が分からない。

超がつく一流プロ野球選手が一流であり続けられるのは、年齢に応じて劣ってくる反応の遅れ、変化する仕組、ミスに対して、まず現状を分析する能力が高く、次に自分が「どういう練習を」「どのぐらいやって」「どの方向に」修正すればいいのかを、まず「頭で」理解して「体で」行動して「修正するまで」継続できるメンタルを持っているからで、そんなことは野球に限ったことじゃない。

素因数に分解することが出来れば要因は、今ある物質、思考、機械、参考書、話を聞ける先輩・・など全て同条件でしかないが、素因数に分解できないと、どこに行けばいいのか、誰に聞けばいいのかがなど起因すべき場所が明確にならない。

こういう思考でいると、それが習慣になり出来ないことは本来素因数分解できない「自分」が原因なのに、素因数分解「してくれない」他者に依存するようになる。

目標設定が明確で、現状の自己分析が明確だとその「差異」が明確になるので、そこにたどり着くまでに必要な課題、つまり因数が明確になるからこそ、その因数を「素因数に分解」し、やるべき「素」イコール凡事が浮き彫りになる。

ここまでは数学的思考だが、ここからは「徹底」という「意志の差」

様々な事象は、断片的な角度からの思考で解決できるわけじゃなくて、様々な角度からの思考を持って、いかにその因数を素因数に分解できるかどうかが大きな「key」になっているよね。