組織の構築には自立が無いと不可能

野球、アメリカンフットボールと集団スポーツをしてきて学んだことは数知れず、それは前職にも現在の農業にも、そして経営にも大きく活かされている。

恐らく学生時代にアメリカンフットボールの経験が無ければ、今は確実にないだろうなと思う。それぐらいあの4年間で学んだことは濃厚であったし、全ての時間をそれに費やしたからこそ得たものは多いし、大きい。

もちろん、それと引き換えにした代償もある。それ以外の時間はほぼなかったし、体中のじん帯で伸ばしていない場所を探す方が時間がかからないし、脊髄や頸椎も損傷したのでいまだに季節の変わり目には後頭部に頭痛がするし、脊髄は3か所が80歳を超えた老人なみに欠けているので腰痛はずっとしている。

にもかかわらず、このマイナスを差し引いてでも圧倒的なプラスの方が自分は残ったなと今でも全く後悔はなく、むしろあの時間や出会った人たちに今でも感謝しかない。

チームプレーでは、必ず各ポジションに対してやるべきことの「責任」が与えられる。当然、相手チームも同じ人数で、同じ条件で戦うわけだから言い訳はきかない。

その際に少しでも自分が疲れたからといって力を抜いたり、さぼったりすると本来守るべき範囲、対人に対しての責任を放棄する事になる。

すると、「他の誰か」がそこを担当しないといけなくなるので、負担をかけられた人間の担当するエリアが広くなる。能力の高い人間は、多少の負担を背負ってでもそのエリアを守ることは可能だがやはり限界があるものだし、当然相手チームも攻めるのは弱点なので、動きの鈍い場所と責任転嫁させられてる場所を責める。

結局、いくら他の人間がきっちりと役割を果たしていても、ほころびが一つでもあればそこを責められれば負けてしまう。自分だけはいーやを繰り返していると、いずれチーム内からの信用は無くなり、その結果「いてもいなくてもいい人間」になり、いずれ「いなくていい人間」になる。

自助・共助・公助という言葉があるが、阪神大震災以降、大震災が急激に増えてきているので確かにそれは当然の事だと感じる。が、この「3助」のバックグラウンドには「何」があっての「3助」なのだろうか?

一言で言い表すには難しいが、自助には「自立」だし、共助には「人材育成」だし、公助には「納税」があって成立するものだと思う。

人口減少が止まらない過疎地域では、人材育成を進めない限り「共助」は望めないし、阪神大震災以降のレベルの災害では「公助」が入らない限り地域の再建が望めるレベルじゃない。

これからの時代は、人口減少と甚大な災害レベルを考えると、「自助」のレベルを上げていかないと「共助」は年々望めないし「公助」も先送りの支払いがいつまでも続くとは思えない。

今だけ、金だけ、自分だけの先送りは、結局先送りした自分の会社や地域、後を継ぐ者に負担になってかかってくるだけ・・。

人が集まるには集まる意味があるし、集まらないには集まらない意味が必ずある。

行動するところには、集まるし、行動しないところには集まらない。

「未来を思考できる人」が、「未来を支える人」の集まる経営態や会社を構築し、その集合体が地域を構築し、その地域の集合体が市町村なので、次世代が魅力を持てない思考で行動していても、そこに未来を構築する「人」が集まらない。