なんで勉強するのか・・?

学生時代に

「なんで基礎解析や確率統計みたいなもん勉強せなあかんねん!こんなもん一生使わんやろ?」とか

オームの法則慣性の法則も使わんやろ?」と思っていた。

確かに使わない。が・・

とある学校の先生がこういうことを投稿していた。これを読んだときに「あーなるほどな」と納得すると同時に笑ってしまった。

「算数と理科を勉強しないと、周りは困りませんがあなたが困ります。

 国語と社会を勉強しないと、あなたは困りませんが周りが困ります。

 だから勉強してください」と。

社会人になって、会社経営しているとまさに腑に落ちる言葉。

社会人になってから教育側の方々とお話しする機会があって話をしていると、大人になってからの「基礎学力」や「義務教育」の大切さをひしひしと実感する。

幼児教育の教授と話をしていた時に自分が

「なんで物理や化学や数学まで勉強する必要がある?あんなもん専門職じゃないと使う事なんて一生ない人間の方が圧倒的に多いやん?」と。

そしたら教授が

「んなもん教える側も分かってる。専門分野でしか使わないであろうことも多々ある。

 だけど基礎学力の大切さはな、数学的なものの考え方を身につけるため、社会学歴史認識を持つことで未来を想像したりする力を身につけることが目的なんよ」と言った。本当にいま、この~的な思考、~的なものの見方の重要性はつまり、物事を俯瞰的に捉えることや、物事の成り立ちや法則を体系的に順を追って理解するのに基礎学力は絶対不可欠だと感じる。

例えば、美術の感性は無くても農業はできる「かも」しれないが、美術のセンスがないと植物のいい状態が記憶されないので、「なんかいつもと違う」という変化が見えない。これにより対応が遅れるので、歩留まりがおちて所得に直結する。

物理なんて卒業したら一生使わないと思っていたら、農業したらもう使う使う!

スコップを使うときは「支点、力点、作用点」を認識しているのか否かで使う力が全く違うし、電気の配線では「直列、並列つなぎ」や、トラクターの電気の配線に使うヒューズにどれだけのアンペア数が必要なのか、ビニールハウスを建設するときに力学という概念が無いと、この補強がどういう効果を上げるための補強なのかが分からなかったり・・まあ本当に良く使う。

また、農業はまさに科学の世界。光合成の化学式が分からなくても農業は出来る。善玉菌と悪玉菌のそれぞれがなぜ働くのかを科学で理解していなくても同様。じゃ、何に差が出るのか?「明確に」結果に差が出る。

同じ資材を使っても費用対効果は明確に違ってくるし、高い資材を使わなくても代用できるコストのかからないものでいくらでも同じ効果が出せる。

音楽も必要。トラクターや作業機を使っていてもエンジン音に異音が生じているのを敏感に感じ取れるのか否かで、早期対応が出来るので出費が変わる。

国語や社会なんて経営には必要不可欠で、マーケティングなんてまさに社会学

そもそもマーケティングという概念を正確に知っているのか否かが大きく商品作りを左右する。マーケティングって、詳細なデータを集めて分析すれば答えが出るわけじゃない。一番大切なことは、どの範疇でマーケティングを行えばマーケティングの効果が最大限に発揮できるのか?ということを最初に見極められることが最大のポイント。どういうゴールを設定するのか?どういう経営理念のもと会社経営を行っているのか?そのゴールに向かってどういう経営戦略で、何年でそこにたどり着くのか?などはそれぞれの経営規模や経営戦略で異なる。

出来もしないことの範囲をマーケティングしても、過剰投資で損失が膨らむ。また、感性が時代感覚からズレているところでいくら詳しくマーケティングしても、それは時代感覚からズレている感覚を身につけるための時間と投資をしているに過ぎない。つまり、生み出したものは全て時代感覚からズレているものなのはあたり前になる。

こういうことを全般的に俯瞰的に考察したり客観視するのには、ある偏った情報や知識や歴史認識では、行動が偏ってしまう。故に、結果が偏る。俯瞰的に物事を捉えて、体系的に順を追ってその物事の仕組みや成り立ちを理解できると、ターニングポイントや、今やるべき事や、絶対にやらないといけないことなどが時間軸にそって浮き彫りになって見えてくる。

俯瞰的に物事を捉えないと、今までやってきたことがもったいなくなったり、今までやってきたことが時代にそぐわなくなったりしても、変化する事や対応する事、あるいは辞めるということが出来なくなる。

なんのために勉強するのか?

それは自分も困らないためだし、周りを困らせないためなんだな。