組織の構築には自立が無いと不可能

野球、アメリカンフットボールと集団スポーツをしてきて学んだことは数知れず、それは前職にも現在の農業にも、そして経営にも大きく活かされている。

恐らく学生時代にアメリカンフットボールの経験が無ければ、今は確実にないだろうなと思う。それぐらいあの4年間で学んだことは濃厚であったし、全ての時間をそれに費やしたからこそ得たものは多いし、大きい。

もちろん、それと引き換えにした代償もある。それ以外の時間はほぼなかったし、体中のじん帯で伸ばしていない場所を探す方が時間がかからないし、脊髄や頸椎も損傷したのでいまだに季節の変わり目には後頭部に頭痛がするし、脊髄は3か所が80歳を超えた老人なみに欠けているので腰痛はずっとしている。

にもかかわらず、このマイナスを差し引いてでも圧倒的なプラスの方が自分は残ったなと今でも全く後悔はなく、むしろあの時間や出会った人たちに今でも感謝しかない。

チームプレーでは、必ず各ポジションに対してやるべきことの「責任」が与えられる。当然、相手チームも同じ人数で、同じ条件で戦うわけだから言い訳はきかない。

その際に少しでも自分が疲れたからといって力を抜いたり、さぼったりすると本来守るべき範囲、対人に対しての責任を放棄する事になる。

すると、「他の誰か」がそこを担当しないといけなくなるので、負担をかけられた人間の担当するエリアが広くなる。能力の高い人間は、多少の負担を背負ってでもそのエリアを守ることは可能だがやはり限界があるものだし、当然相手チームも攻めるのは弱点なので、動きの鈍い場所と責任転嫁させられてる場所を責める。

結局、いくら他の人間がきっちりと役割を果たしていても、ほころびが一つでもあればそこを責められれば負けてしまう。自分だけはいーやを繰り返していると、いずれチーム内からの信用は無くなり、その結果「いてもいなくてもいい人間」になり、いずれ「いなくていい人間」になる。

自助・共助・公助という言葉があるが、阪神大震災以降、大震災が急激に増えてきているので確かにそれは当然の事だと感じる。が、この「3助」のバックグラウンドには「何」があっての「3助」なのだろうか?

一言で言い表すには難しいが、自助には「自立」だし、共助には「人材育成」だし、公助には「納税」があって成立するものだと思う。

人口減少が止まらない過疎地域では、人材育成を進めない限り「共助」は望めないし、阪神大震災以降のレベルの災害では「公助」が入らない限り地域の再建が望めるレベルじゃない。

これからの時代は、人口減少と甚大な災害レベルを考えると、「自助」のレベルを上げていかないと「共助」は年々望めないし「公助」も先送りの支払いがいつまでも続くとは思えない。

今だけ、金だけ、自分だけの先送りは、結局先送りした自分の会社や地域、後を継ぐ者に負担になってかかってくるだけ・・。

人が集まるには集まる意味があるし、集まらないには集まらない意味が必ずある。

行動するところには、集まるし、行動しないところには集まらない。

「未来を思考できる人」が、「未来を支える人」の集まる経営態や会社を構築し、その集合体が地域を構築し、その地域の集合体が市町村なので、次世代が魅力を持てない思考で行動していても、そこに未来を構築する「人」が集まらない。

 

あたり前を継続できる思考

凡事徹底という言葉がある。

何でもないあたり前のことを「徹底的に」行う事という意味。

何でもないことをやることは簡単だけど、それを徹底的にやることは難しい。

まさに、言うは易し行うは難しとはこのことだが、ここがまさに思考分岐点。

難しいから「やらない」のか、難しいということは他の人がやらないから「やる価値がある」とそこにやりがいを感じるのか。

じゃあ、ここで問題になるのがよく言われる「能力」というやつだけど、はっきり言って自分は個人の能力に多少の差はあれど、殆どそんなものはないと思っている。

結果を出すのに必要な最大要因は、文句を言っている口じゃなくて、行動する体だし、他社依存しない心だし、やり続けられる意思で、これは全部「自分の決定事項」だからだ。これがないと「そもそも」始まらない。

そして、行動を起こす次に必要な能力は「数学的思考」だと思う。

目標設定すると、そこに行きつくまでには様々な乗り越えなくてはならない過程が存在するが、そのすべては「素因数の集合体」で成り立っていると気づける思考があると、一見困難に見える事象を素因数に分解して「当たり前の集合体」にしてしまう。

どんなことも素因数に分解する事が出来れば、当たり前の集合体でしかないが、目標設定が高ければ高いほどその素因数の数が膨大になって行くので、数学的思考がないと素因数に分解できずに複雑化した困難なことだと認識したまま行動を起こす。すると、失敗や困難に直面した時にその原因が分からないので、「何を修正すればいいのか?」「どこを修正すればいいのか?」が分からない。

超がつく一流プロ野球選手が一流であり続けられるのは、年齢に応じて劣ってくる反応の遅れ、変化する仕組、ミスに対して、まず現状を分析する能力が高く、次に自分が「どういう練習を」「どのぐらいやって」「どの方向に」修正すればいいのかを、まず「頭で」理解して「体で」行動して「修正するまで」継続できるメンタルを持っているからで、そんなことは野球に限ったことじゃない。

素因数に分解することが出来れば要因は、今ある物質、思考、機械、参考書、話を聞ける先輩・・など全て同条件でしかないが、素因数に分解できないと、どこに行けばいいのか、誰に聞けばいいのかがなど起因すべき場所が明確にならない。

こういう思考でいると、それが習慣になり出来ないことは本来素因数分解できない「自分」が原因なのに、素因数分解「してくれない」他者に依存するようになる。

目標設定が明確で、現状の自己分析が明確だとその「差異」が明確になるので、そこにたどり着くまでに必要な課題、つまり因数が明確になるからこそ、その因数を「素因数に分解」し、やるべき「素」イコール凡事が浮き彫りになる。

ここまでは数学的思考だが、ここからは「徹底」という「意志の差」

様々な事象は、断片的な角度からの思考で解決できるわけじゃなくて、様々な角度からの思考を持って、いかにその因数を素因数に分解できるかどうかが大きな「key」になっているよね。

スーパーボウルと農業の現場と・

もはやこの言葉がふさわしいのか・・

物事を新たに生み出す人や、新たな時代を切り拓く人はいつの時代も必ず存在する。「今まで」や「みんなと一緒」という言葉を一生使って生きる人とそもそもの生き方が違う。43歳であのスーパーボウルで7回の優勝を手にしたQBのトムブレイディ。

昨年までの優勝常連とまで言われたチームから移籍しての今期の優勝は、明らかにこの43歳の彼の偉業であり、「今まで」使われなった「今年も!」「また!」トムブレイディがスーパーボウル優勝の立役者となった。

当然、43歳なので肉体的なピークは過ぎている。しかもプロの世界。毎年毎年、年俸数億円で契約されるような超ビッグスター選手がドラフトでピックアップされる厳しい世界で、毎年コンディションを整えて試合に出続ける凄さは想像に計り知れない・・。しかも戦略がモノをいうスポーツの世界の司令塔。毎年毎年、スカウティングして相手チームも完璧な戦略で戦ってくる。にもかかわらず勝ち続けるのは、肉体のみならず「頭のコンディション作り」がそれ以上にあるからで、リアルスーパーマンだ。

以前、元中日ドラゴンズ山本昌選手の番組があって観ていたが、彼は入団して間もなくクビになりかけていた選手だったし、プロに入って1勝する事が彼の目標だったと語っていた。それが50歳まで現役を続け、200勝以上の功績を残したプロ野球界に名を残す大投手になったのは、彼の「練習量」と「自己分析能力」と取り組む「姿勢」だなと感じた。

彼は40歳をすぎてから1日も練習を休んだことが無いと言っていた。若い時は1日休んでも次に日に、3日あれば・・と取り戻せたが、年齢を重ねるにつれて取り戻す期間が延びてゆくことを感じて、休むともう取り戻せなくなるから休まなくなったという事。

キャンプ中も他の選手がバスに乗ってグランドまで移動するにもかかわらず、自分はランニングで宿舎とグランドを移動していたことなど。そして40歳を過ぎた自分が50歳までプロの世界にい続けることが出来て、なお勝利できたのは40歳になるまでの練習、走った貯金があったからだと言っていたことは印象的だった。

どの世界においてもプロの世界で長く活躍される方々は、時代が変わっても、その方法が変わっても、科学が進んでも自分のコンディション作りや環境作りを自分で行うという事や、そのためにきっちりと時間とお金をかけて投資し、結果の「当たり前」を維持し続けることは変わらない。

そういう物事に取り組む「姿勢」を次世代が学びにくるわけで、「金」で人は集まらないし、いくら時間や金を使っても「姿勢」は見せられない。

農業や森林の1次産業の現場も同じことで、目の前の「今だけ、金だけ、自分だけ」発想でいてもセンスのいい人間は年齢関係なく「こういうことは続かないだろうな」と取り組む「姿勢」をすぐ見抜くし、それを見抜けない時点で生き残って行くだけ長期的視点から見た、自己分析能力が問われる。土から、森の中から「今だけ、自分だけ」を肥やしたり、楽をして次世代のための「時間」や「養分」を搾取し続けると、そこに次世代が育つために必要な「姿勢」つまり「教育」という変化に対応するだけの遺伝子を残す事が出来ないし、いくらそこに種子を落とそうともそれが育つだけの「土壌環境」がもはやそこにないと、その種子は「昭和の温暖な気候レベルの遺伝子」では生き残れず、「令和の激動に対応するだけの遺伝子」を持った種子が生き残る。

そもそも次世代に受け継ぐ時点で、受け継いだ種子の遺伝子の組成は変化しない。その後の環境要因で求められる対応力で変化は可能だが、対応力が身につくまではそもそも種子の遺伝子レベルが左右されるので、そこに達するまでの優位性は、やはり大きい方が生存競争で勝ち残る可能性ははるかに高い。

一次産業という職業もスポーツの世界も、環境因子を作るのは先を生きる人間の器で決まる。今だけしか見えずに、自分が楽をして搾取すれば次世代が育つことはあり得ないし、その後を見据えればその養分も少し残して、次世代が育つためのたい肥や養分を残しつつ、朽ち果ててもなお自分も次世代が育つ養分になろうとするかまでが視野にあるか否かは、今の「姿勢」を観ていれば容易に判断できる。

そういう学びが多い豊かな環境には、やはりポテンシャルの高い遺伝子を持った種子が集まるし、そういう環境は様々な環境要因に強い種子がまた交配されてゆくので、多様性を「遺伝子レベルで」変化する、環境要因に左右されない強い種子が生き残るというサイクルが形成されてゆく。

金のサイクルでものを考えていると短期的なサイクルでしかものを捉えられなくなるが、生物のサイクルはそんな短い目に見えるサイクルだけで成り立っているものではない。環境のサイクルなんて何百年ものサイクルだし、人の遺伝子のサイクルも数十年のサイクル。しかも人間のような高等生物になればなるほど、構成する遺伝子も複雑化して行くので、遺伝子変異を起こすことも難しくなるし、複雑化すればするほど起因する要因を特定する事が難しくなるもの。

今の結果は「今まで」の蓄積が構成している。

令和の環境を生き残る遺伝子をもった種子はもう撒かれた結果でしかない。

「姿勢」を学ぶ環境で育った種子か否かのような気がする。

成長分岐点

様々な分野の、様々な世代の、様々な思考の人たちと話すことで自分の思考や方向性が明確になるというのはよくあること。

だがこれは、「様々な分野」「様々な世代」「様々な思考」と触れるという経験をもった人にしかわからないことだし、それによってなぜ?ぼやけていた思考や方向性が明確になるのか?とうことも、それをいつも意識し解決策を模索し、明確化したいという意思を持っているからそのタイミングが訪れるが、それも体験した人でないと分からない。まさに「知号合一」。こういう「実体験」を繰り返すことでなんとなく大局的に物事を捉えることが出来るようになってきて、こういうことを解決するには大体このぐらいの労力や時間が必要だろうなとか、この案件はこういう分野の人に相談してきたらヒントがありそうだなと嗅覚が育ってくる。

つまり実体験が蓄積されて、確率が向上して行き、精度が増す。これが時間短縮につながりいわゆる「要領」がよくなる。

本当の「経験」とはつまりこういう事で、長く生きているから経験値が増すわけじゃなくて、自分で設定した「解」に対し、自分で仮説を立て、自分でその過程を考えた後、失敗した回数と、それを修正した回数の多さ。

だから人が想定した解や、人が決めた解や、いつまでも人の模倣を繰り返していても最初のうちは「経験値」は向上するが、ある一定水準まで達すると経験値は急激に蓄積されなくなる。つまりそこからの成長は「それぞれの解の設定」にあるにもかかわらず、人生において自分で自分の「解」を設定した経験を持たないとそこで行き詰る。

行き詰まり、未来を想定できなくなるから「過去の肯定」でしかなくなり、今度は過去に向かって歩みだす。

一方で、いくつになっても未来に歩を止めない大先輩方もいらっしゃいますが、まさにvintageのクラッシックカーに最新のエンジンやAIパイロット技術を備えた車の様な存在でしびれるし、惹かれる。

両者の分岐点は明確。

前者は「知っていること」以外を受け付けない(受け付けられない)、または自分の過去の成功体験から抜け出せないのに対し、後者は「知らないこと」も含めて「知っていること」も知らないこととして考えるし、過去の成功体験に捉われずにより良い未来を常に模索し続ける。

肉体的な成長と頭の成長は必ずしも比例しないが、前者のような思考でいると、肉体の前に頭が老化してしまう。頭の老化は行動の範囲を縮めてしまうので、水戸黄門のテレビが面白くなるように、同じ時間割で、同じところの入浴シーンと、善と悪で必ず善が勝つというお決まりパターンに安心するという思考に落ち着く。けれども、安心していても世の中はそんな単純な構成要素で成り立っているわけではないので、安心感はやがて危機を呼び込んでくる。

まあ分かりやすく言えば、紋所を見せているときに戦車で乗り込んでくる悪い奴がでてくるとそもそものドラマの設定が終わってしまうのと同じだが、現実社会のコロナは紋所や現在の医療のレベルには合わせてくれないのと同じこと。つまりテレビ局側が視聴率をとるために「終わらせない仕組みや設定」をしているに過ぎない。

どんどん「解」が定まらない時代に突入してくると、この「大局観」をもっているのかどうかの差が大きく浮き彫りになるような気がする。

大局観は目に見えないものだが、そもそもの行動を起こす上での「確率論」で明らかに差がつく「根拠の分母」と同じことで、これはノムさんID野球と同じこと。

「読み」は「あてずっぽ」とは大きく違って「根拠に裏打ちされた確立論」

答えがない世の中で成長を続けていくためには、無限の失敗ではPhysicalの前にmentalが持たない。

 

組織形成と地域論と集団スポーツの共通項

最近はYOUTUBEに参加する人が多くなってきてよく見ている。

興味があってよく見ているのは、元プロ野球選手しかも超がつくほどの一流選手たちの

打撃論やチーム作りや選手育成の話。

少し前までこんなことを聞ける機会なんて全くなかった。

興味深いのは一流選手ほど「自分のやるべき仕事」をそのチームの中で分かってやっている(いた)こと。

そして「プロの世界で」自分が2流なら超2流として生きていこうと思ったからプロの世界で生き残り、最後には名球会入りしたしたこと。

など、やはり負けない組織やチームを形成するには

「自分で考えられる人間」

「その時その時にやるべきことを理解している人間」

「その準備をしっかりしている人間」が不可欠なんだと思うし

「育成が上手い」というのが共通している。

学生時代の野球部のコーチはプロ野球から誘いのあった人だった。

そのコーチが一番嫌がったのは「みんな同じ」事と「今までと同じ」事だった。

打ち方や投げ方が少々違っても修正しない。

何故か?

「当たり前だろ?みんな同じじゃーな、一人のピッチャー打たれたら全部打たれるわ。逆に、一人が打てなかったらみんな打てないわ。それぞれのタイミングや感性が違うからチームが成り立つんだよ。みんな同じで勝てるのは少年野球までなんだよ」と。

アメリカンフットボールラグビーもサッカーもバスケットボールも多分同じなんだろう(サッカーとバスケは経験ないから想像だけども)

全員がホームランバッターで勝てるチームは存在しない。所詮打者がヒットを打てる確立は3割で、かつホームランを打てる確立はそれ以下。

場面によってはホームランの確立よりも、ワンヒットで2塁からホームまで帰ってくる足のある人間、確実にバントで送れる人間、確実にセカンドゴロを打てる人間がいないと勝てない場面は必ずある。こういう場面で3割以下の話ではプロの話にはならない。「確実」に仕事をする必要があり、こういう場面での仕事は勝ち試合のどうでもいいホームラン以上の仕事の価値がある。

アメリカンフットボールラグビーも同様。スクラムを組む人間もいれば、状況判断をしてボールをどこに出すか判断する人間、それをスピードで抜き去って点を取る人間と役割分担がきっちりと出来ているからこそ「組織」が成立し勝利する。しかも、練習と同じ状況は本番ではありえないので、常に「考えて行動する」人間でないと使えない。

そしてそういう組織はまた「選手層が厚い」という共通点も持ち合わせる。

ベテランがけがをしても、引退しても必ずその穴を埋める若手の育成が整っているし、その瞬間を若手も虎視眈々と狙っている。まあ、そういう組織は仲良しごっこは無い。ほんとのプロは、仲良しごっこが組織を弱体化させることを「最初から」知っているから。

昔から「いい子いい子はどうでもいい子」「いい子いい子は都合のいい子」って言うんでね。その小さな社会で「いい子」でも、それを取り巻く環境の社会では「いい子」は通用しない。ましてもうこの時代にわざわざグローバル化なんてすでに死後に近いぐらい「当たり前」の時代には、視野を広く持って、俯瞰的に自分が生き残れるポジショニングを常に確認して意識してその場所を確保しておかないと、スポーツの世界同様ビジネスの世界でも、スピードもセンスも感覚も全く異次元のレベルで戦う時代になっている。

それをハイレベルで戦うことを「楽しい」と思えるのか、それを「苦しい」と思うのか?

それはそもそもの「知っている」基準や「環境」で準備してきた差だろうし、プレイヤーとしてではなく、マネージャーやコーチングで「育成」も楽しめるか否かの差なんだろうか?

いつまでもプレイヤーとしてちやほやしてもらえる時代なんて長くは続かない。

プレイヤーとして先頭集団を「引っ張ている時は」後ろを走っている人間は「やっぱりすげーな!」と思ってるけども、「どうでもいい子や都合ののいい子」に気づかいさせてお山の大将でいても俯瞰的に物事を判断できればプレーヤーとしての限界に気付く。

本当のプロの世界は実力だから、試合に出れないし、若手がベテランを押し出して行く前に道を譲り引退し、また育成が充実して行くというサイクルが形成される。

本当に実力で勝ち抜いてきた人間だけが勝ち方を知っているから、勝ち方を知っていないとプロの世界では「結果」が求められるから若手の育成ができない。コーチや監督になって若手が育つ楽しみを味わえるのは僅かなんだろうな・・。

 

正直言うと・・・

今年も1月が終わりました・・とか、今年もあと1週間になりましたとか・・

言ってきたけれど、実は・・

そんなこと思ったことは全くないわけで(笑)

毎年、紅白歌合戦とか格闘技やBOXINGとかがあるので「あ、もう大みそかか・」

とか思ってしまうし、一応新年を迎えるのですべての掃除とかを済ましておかないとダメだと思うけれども、多分普段からすごくきっちりしている人ならわざわざ大掃除とか洗車とかって年末になったからと言って騒いだりしないんだろうなと思う。

忙しさにかこつけて普段やってないことをだから奇麗にしておかないと1年の帳尻が合わないと思うからやってる。

だから正直1月1日というよりも、毎年12月32日、33日・・と続いてるような感覚で、1月31日がわが社の決算なのでそれが終了して初めて自分は年末が来た感じかな。

でもそれも自分にとってはすごく小さな時間軸・・実は。

自分が30歳で農業を始めるときに65歳で一線を退こうと思って始めたので、365日×35年でカウントダウンが始まったような感じだった。つまり12775日から自分の目標設定の逆算が始まった感じだった。

そして今、20年が経過したので7331日が経過し、あと残りもう5444日しか残っていない感覚。そう思えば残り少なくなったなと思う。

目標到達した後、余裕をもって「いつ引退しようかな?」はいいけれど、体も頭も動かなくなってからラストスパートに必死になるのは辛い・・。

同じ道のりなら、体力も気力も集中力もあるうちにアドバンテージをとっておいて、後は休みながらでも、さぼりながらでも余裕で楽しみながらゴールしたいもの。

逆算していると、本当に時間が惜しい。

自分のやりたいことはもちろんだが、まだまだ会いたい人、行ってみたいところ、そしてお世話になった人と過ごす時間や、自分の遊びの時間・・全然時間が足りないな。

でも本当にやりたいことをするために、まずやらないといけないことを何十年もかけてやってしまう。

ま、だいたいやりたくないことは、絶対にやらないとダメなことだし、やりたいことは、やってもやらなくてもいいことなんだよな。

だから、体力のあるうちにまず片づけてしまう事をずーーーっとやってきた。

やらないといけないことをずーーーーっとやってきた。

もういずれにしろ、体力も頭も成長しないだろうから、自分がしたくなくても勝手にペースダウンしてくやろ。

ま、望んでいなくても必ずみんな運動会で前のめりにこけたり、老眼になってくように自分もすこぶる順調だと感じる。

久々のナイトランしただけで、膝痛いなんて(笑)・・考えられないけど、まこれが順調な証やね。ということが認識できたので、これ以上後退出来ないので今を維持するためにもう少しまじめに走ろうと思う。

 

なんとかしてくれよ・・って

少し前に女性のコンサル業務をされている方とお話しした時に言っていたこと。

「よくね、なんとかしてくれ!って相談あるんですけど・・」って・・。

これを聞いたときに

「それおかしくない?何とかするのは経営者の方であって、こうしたいんだけど何が違うのかな?とか、こういうものを作りたいと思うんだけどどこにいけばいいのかな?とか、こういう話を聞きたいんだけど誰にきけばいいんだろう?とかが普通でしょ?だってそういう人のなんとかするってあなたに人生のかじ取りしてくれって言ってるんだもんね?」って返すと

「あーやっぱりそうですよね(笑)この話分かる人は必ず、どういうことがしたいからっていう自分の意志や方向性を示した上で私にマッチングなり、アドバイスなりを求めてこられるんですよ。だから私は客観的に話をするだけですし、そこが分かっている経営者の方は自分では気づかない客観的視点を求めているので大体私の意見に耳を傾けていらっしゃいますね」と。

どんなことにも当てはまる共通点で、

「誰に相談したから」

「誰とあったから」

「こういうものが建ったから」

「こういう施設が出来たから」

で変わるのは、自分以外が変わるだけで、自分の中の「誰かに何かをやってもらおう」という意識は全く変わっていないことに気付かない。

なにかが出来て変わるのは、そもそも何かが出来なくても、誰かに依存しなくても少しずつでも前に進む努力をしていた人の努力の導火線に火が付くきっかけになったり、もともと集客力があるところが更に集客力が増えるだけの話でしかない。

自分が主体となって行動しないのに、誰も賛同しないし、応援もされない。

賛同される人、応援される人には必ず共通点がある。

それは「人の目を気にしながら形だけ上手くやろうとする」んじゃなくて

   「上手く行くか行かないかよりも、がむしゃらに本気でやり続ける姿勢」があるかないかだけ。

オリンピックやラグビーや野球でもサッカーでも、人が共感して応援して涙流すぐらい心動かされるのは、小ずるく上手くやってる姿じゃなくて、汗かいて体張って限界まで一生懸命やる姿に感動を覚えて応援したくなるもの。だから負けたチームにも同じだけの称賛が与えられるし、その姿をみて新たな応援団も増えるもの。

だけど小さいころから自分が先頭に立って一番大変な風をうけて突き進む経験をした事が無くて、人の顔色をうかがいながら「上手く、怒られないように」行動してくると、痛みや辛いことを経験する事が出来なくなる。

でもその先に待っているのは、先頭に立って何度も何度も挫折や失敗を味わってでも突き進んだ人間だけが味わえる「一番おいしいところ」じゃなくていつも「そのあとの食べ残し」だ。先頭に立たなくてもチャンスはやってくる。だけど何かが大きく変わるだけのチャンスはやってこない。その大きなチャンスは前で全部持っていかれているから、その残り物ではいつまでも何も変わらない。

最初から何かを犠牲にする覚悟で行動する人と、その覚悟を持たずになんとなく始めた人では、何かにぶちあった時でも「まーこんなのそもそもあることでしょ?」ってそこからがやっとスタートだと考える思考能力なのか、「~がないと出来ない、~がやってくれないから出来ない」とすでにそこが終わりの思考能力なのか全く違う。

前者はその時点で「ワクワク」と未来が始まるし、後者は「絶望」と過去の栄光にすがりだす。こういうことを繰り返していると、最初の壁に当たった時点でどれぐらいの割合でリタイヤして次の壁までやってくるのがどれぐらいで、又次の壁に当たった時にリタイする割合ってなんとなく分かってくるもの。

やらないという決断は「他人がきめたこと」じゃなくて「自分がきめたこと」だから、それが習慣になるともうずっとやらなくなって、いつのまにか出来なくなってゆく。

どうせどんどん年を取っていけば、体力もセンスも置いていかれるのはあたり前だし、どれだけ築いた財産も棺桶には入れてもらえないしな(笑)

それを「最初から」分かっていれば、やっぱり「なんとしてでも」自分がやるよね。