粋(いき)

粋(いき)とは・・さっぱりした気立てで、垢抜けがし、色気もただよう(特に花柳界の遊びに通じている)こと。そういう感じのする身のこなし、様子。人情の機微(容易には察せられない微妙な事情)に通じ、さばけているさま。

例えば、

落ち度を粋な計らいで取り繕ってやる。

とあるように、粋とはしてもらう事、与えられることの方向性じゃなくて、してあげる事をしてあげたと思わない事、与えたことを悟られないようにする事だし、稼ぐ行為ではなく、使う行為の側の言葉だと考える。

どう使うか?から逆算してどう稼ぐのかという「目的」から「方法」を考える思考でないと、稼ぐこと自体が目的では粋じゃない。

ある程度の年齢を過ぎれば「粋」でありたいものだなと思うものだが、稼ぐことだけに執着して人生を送ってくると、いつのまにかどう使うのかの使い方を覚えずに年を取る。お足に集まる人は、お足がなくなれば去るだけなので、人に集まっているのではなく、それはお足に集まっているだけ。

粋に生きている人を見ると自分の「金」「時間」「知識」等を「どう使うか?」をいつも考えているので、そういう人のもとには常に人が集まる。

人が集まるからアイデアもでるし、人も育つし、化学反応も起きる。

「今だけ・金だけ・自分だけ」に「粋」の概念など存在しない。

「粋」の概念はそうしたことさえ悟られないことまでが「粋」。

人情の機微に通じるにも、自分が大変な思いをすればこそ。だからさりげないフォローもしてあげられるもの。

「恩送り」という概念も「粋」の概念と似通う。

受けた恩は、次の世代に返す。そしてまた次の世代に送る。それを必ず言い伝える。

自分だけが恩を受けて、次世代の分まで搾取するところに人が残らない。つまり、出ていく。人がいなくなるとはつまりそういう事なんだな。

経理をしっかりできると「負債」と「資産」は同額だと知っている。

受けた恩恵は、先代の努力の賜物だし、成功する人はそれと同じだけ努力しているなんて学生時代に学ぶもの。

自分だけがいいとこどりをすると、必ず次の世代が泣きをみることが分かっている人は、次世代の分まで背負う「粋」をもっているもの。

 

なんで勉強するのか・・?

学生時代に

「なんで基礎解析や確率統計みたいなもん勉強せなあかんねん!こんなもん一生使わんやろ?」とか

オームの法則慣性の法則も使わんやろ?」と思っていた。

確かに使わない。が・・

とある学校の先生がこういうことを投稿していた。これを読んだときに「あーなるほどな」と納得すると同時に笑ってしまった。

「算数と理科を勉強しないと、周りは困りませんがあなたが困ります。

 国語と社会を勉強しないと、あなたは困りませんが周りが困ります。

 だから勉強してください」と。

社会人になって、会社経営しているとまさに腑に落ちる言葉。

社会人になってから教育側の方々とお話しする機会があって話をしていると、大人になってからの「基礎学力」や「義務教育」の大切さをひしひしと実感する。

幼児教育の教授と話をしていた時に自分が

「なんで物理や化学や数学まで勉強する必要がある?あんなもん専門職じゃないと使う事なんて一生ない人間の方が圧倒的に多いやん?」と。

そしたら教授が

「んなもん教える側も分かってる。専門分野でしか使わないであろうことも多々ある。

 だけど基礎学力の大切さはな、数学的なものの考え方を身につけるため、社会学歴史認識を持つことで未来を想像したりする力を身につけることが目的なんよ」と言った。本当にいま、この~的な思考、~的なものの見方の重要性はつまり、物事を俯瞰的に捉えることや、物事の成り立ちや法則を体系的に順を追って理解するのに基礎学力は絶対不可欠だと感じる。

例えば、美術の感性は無くても農業はできる「かも」しれないが、美術のセンスがないと植物のいい状態が記憶されないので、「なんかいつもと違う」という変化が見えない。これにより対応が遅れるので、歩留まりがおちて所得に直結する。

物理なんて卒業したら一生使わないと思っていたら、農業したらもう使う使う!

スコップを使うときは「支点、力点、作用点」を認識しているのか否かで使う力が全く違うし、電気の配線では「直列、並列つなぎ」や、トラクターの電気の配線に使うヒューズにどれだけのアンペア数が必要なのか、ビニールハウスを建設するときに力学という概念が無いと、この補強がどういう効果を上げるための補強なのかが分からなかったり・・まあ本当に良く使う。

また、農業はまさに科学の世界。光合成の化学式が分からなくても農業は出来る。善玉菌と悪玉菌のそれぞれがなぜ働くのかを科学で理解していなくても同様。じゃ、何に差が出るのか?「明確に」結果に差が出る。

同じ資材を使っても費用対効果は明確に違ってくるし、高い資材を使わなくても代用できるコストのかからないものでいくらでも同じ効果が出せる。

音楽も必要。トラクターや作業機を使っていてもエンジン音に異音が生じているのを敏感に感じ取れるのか否かで、早期対応が出来るので出費が変わる。

国語や社会なんて経営には必要不可欠で、マーケティングなんてまさに社会学

そもそもマーケティングという概念を正確に知っているのか否かが大きく商品作りを左右する。マーケティングって、詳細なデータを集めて分析すれば答えが出るわけじゃない。一番大切なことは、どの範疇でマーケティングを行えばマーケティングの効果が最大限に発揮できるのか?ということを最初に見極められることが最大のポイント。どういうゴールを設定するのか?どういう経営理念のもと会社経営を行っているのか?そのゴールに向かってどういう経営戦略で、何年でそこにたどり着くのか?などはそれぞれの経営規模や経営戦略で異なる。

出来もしないことの範囲をマーケティングしても、過剰投資で損失が膨らむ。また、感性が時代感覚からズレているところでいくら詳しくマーケティングしても、それは時代感覚からズレている感覚を身につけるための時間と投資をしているに過ぎない。つまり、生み出したものは全て時代感覚からズレているものなのはあたり前になる。

こういうことを全般的に俯瞰的に考察したり客観視するのには、ある偏った情報や知識や歴史認識では、行動が偏ってしまう。故に、結果が偏る。俯瞰的に物事を捉えて、体系的に順を追ってその物事の仕組みや成り立ちを理解できると、ターニングポイントや、今やるべき事や、絶対にやらないといけないことなどが時間軸にそって浮き彫りになって見えてくる。

俯瞰的に物事を捉えないと、今までやってきたことがもったいなくなったり、今までやってきたことが時代にそぐわなくなったりしても、変化する事や対応する事、あるいは辞めるということが出来なくなる。

なんのために勉強するのか?

それは自分も困らないためだし、周りを困らせないためなんだな。

 

農業は生き方だよな・・って

自分は大学を卒業してから就職し、阪神大震災を経験して農業を始めた。

その時に、北海道の農業系の短大に社会人入学して再度勉強した。

短大は、農業系と保育系があり自分は農業系だったが、興味があったし、保育の教授とも交流があったので保育の実習にもたまに参加していた。

当時交流のあった保育の教授は農家の方とも知り合いが多くよく農業の話をしたもんだった。

その教授が自分に「農業は仕事じゃないよな。生き方だな。」と言った。

恐らく、その教授が何人もの農家の人たちと交流してそう感じたんだろう。

農業を始めて20年以上たつがまさにその教授が言ったことその通りだと最近しみじみ感じる事が多くなってきた。

自分が農業を始めたとき近所の敏腕農家に

「あんた、となり百姓になったらだめだぞ」と言われた。

「何ですか?となり百姓って?」

「となり百姓っちゅうのは、となりがトラクター買ったからうちも買う。となりが農薬まいたからうちもまく。となりが土地広げたからうちも広げる。こういうのをとなり百姓っちゅうのよ」と教えてくれた。

もちろんその敏腕農家は自己判断能力に長けた農家であるのは言うまでもない。

農業というか自営業はゴルフとよく似ている。

スポーツ全般そうだが、練習でやってないことは試合で絶対に出来ない。本番で出る結果は全て練習でやったことだし、出るミスはやってこなかったことでしかない。

練習不足に限って奇をてらうことをするが殆ど上手く行かない。

本当に強いのは、来る日も来る日も基本練習と基礎トレーニングを涙が出るほど繰り返した人間。本番でミスをしないのが最強だし、プロはそれを知っているからそんな地道な練習を繰り返すことが出来る。

ゴルフも同様で、プロゴルファーなんてMAXで振るとドライバーなんて300y超える。だけど試合は距離を競う競技じゃなくてスコアを競う競技。8割で勝てないのはどんな仕事でも同じ。だから、踏ん張りをきかせるべき時に100%発揮できるもの。相手がいくら飛ばそうとそれに動揺せず淡々と自分の戦略で練習通りに攻略する事が出来るかどうかだけの話。つまり自分との勝負。

自分の目標が明確で、戦略が明確だと他人がどう攻めようが全く動揺しないし、それは他人の戦略だし、他人の目標。

自分に明確な目標がなく、十分本番に臨むに足るだけの練習をこなした自身が無く、下調べを怠って戦略がないと他人の戦略にいつも引っ張られるようだ。

農業経営も同様。他人がいくら売上げようが、土地を買おうが全く興味ない。

それは他人の経営で、他人の人生だから。

そもそも金が目的で農業を始めたわけではないので、あそこがいくら売ってるだの、土地を広げただのどうでもいい話。

自分は自分に関わる人に喜んでもらいたいし、家族の時間や体を犠牲にしてまで仕事を優先してほしいと思わないし、そもそもそんなことは働いてもらう人にも、これから老化して行く自分にも永遠に続けられるわけはない。

だからそのために、体が動くうちに休みなどほとんどなく、働いて準備してきた。

今、うちの農園にはカフェも450坪のガーデンも、ため池を利用した釣り堀もある。

そしてこれを作るのに携わってくださった方々との交流は、ガーデンを作らなければあり得なかった。カフェに来ていただいて喜ばれる方や、またうちのガーデンを見に来たんですと訪れる方。うちのアスパラしかもう食べないと言って頂く方。

そして目標にむかって一緒に働いてくれるスタッフたち。

金なんていくら稼いでも、この充実感はこれを実行した人間にしか味わえない。

これからもまだまだやりたいことは山ほどある。

他人の生き方も、他人の目標も全く興味がないのはこれからも微塵も揺るがない。

今までも、これからも、自分は自分の決めた自分の目標と自分と競争して行くだけ。

組織の構築には自立が無いと不可能

野球、アメリカンフットボールと集団スポーツをしてきて学んだことは数知れず、それは前職にも現在の農業にも、そして経営にも大きく活かされている。

恐らく学生時代にアメリカンフットボールの経験が無ければ、今は確実にないだろうなと思う。それぐらいあの4年間で学んだことは濃厚であったし、全ての時間をそれに費やしたからこそ得たものは多いし、大きい。

もちろん、それと引き換えにした代償もある。それ以外の時間はほぼなかったし、体中のじん帯で伸ばしていない場所を探す方が時間がかからないし、脊髄や頸椎も損傷したのでいまだに季節の変わり目には後頭部に頭痛がするし、脊髄は3か所が80歳を超えた老人なみに欠けているので腰痛はずっとしている。

にもかかわらず、このマイナスを差し引いてでも圧倒的なプラスの方が自分は残ったなと今でも全く後悔はなく、むしろあの時間や出会った人たちに今でも感謝しかない。

チームプレーでは、必ず各ポジションに対してやるべきことの「責任」が与えられる。当然、相手チームも同じ人数で、同じ条件で戦うわけだから言い訳はきかない。

その際に少しでも自分が疲れたからといって力を抜いたり、さぼったりすると本来守るべき範囲、対人に対しての責任を放棄する事になる。

すると、「他の誰か」がそこを担当しないといけなくなるので、負担をかけられた人間の担当するエリアが広くなる。能力の高い人間は、多少の負担を背負ってでもそのエリアを守ることは可能だがやはり限界があるものだし、当然相手チームも攻めるのは弱点なので、動きの鈍い場所と責任転嫁させられてる場所を責める。

結局、いくら他の人間がきっちりと役割を果たしていても、ほころびが一つでもあればそこを責められれば負けてしまう。自分だけはいーやを繰り返していると、いずれチーム内からの信用は無くなり、その結果「いてもいなくてもいい人間」になり、いずれ「いなくていい人間」になる。

自助・共助・公助という言葉があるが、阪神大震災以降、大震災が急激に増えてきているので確かにそれは当然の事だと感じる。が、この「3助」のバックグラウンドには「何」があっての「3助」なのだろうか?

一言で言い表すには難しいが、自助には「自立」だし、共助には「人材育成」だし、公助には「納税」があって成立するものだと思う。

人口減少が止まらない過疎地域では、人材育成を進めない限り「共助」は望めないし、阪神大震災以降のレベルの災害では「公助」が入らない限り地域の再建が望めるレベルじゃない。

これからの時代は、人口減少と甚大な災害レベルを考えると、「自助」のレベルを上げていかないと「共助」は年々望めないし「公助」も先送りの支払いがいつまでも続くとは思えない。

今だけ、金だけ、自分だけの先送りは、結局先送りした自分の会社や地域、後を継ぐ者に負担になってかかってくるだけ・・。

人が集まるには集まる意味があるし、集まらないには集まらない意味が必ずある。

行動するところには、集まるし、行動しないところには集まらない。

「未来を思考できる人」が、「未来を支える人」の集まる経営態や会社を構築し、その集合体が地域を構築し、その地域の集合体が市町村なので、次世代が魅力を持てない思考で行動していても、そこに未来を構築する「人」が集まらない。

 

あたり前を継続できる思考

凡事徹底という言葉がある。

何でもないあたり前のことを「徹底的に」行う事という意味。

何でもないことをやることは簡単だけど、それを徹底的にやることは難しい。

まさに、言うは易し行うは難しとはこのことだが、ここがまさに思考分岐点。

難しいから「やらない」のか、難しいということは他の人がやらないから「やる価値がある」とそこにやりがいを感じるのか。

じゃあ、ここで問題になるのがよく言われる「能力」というやつだけど、はっきり言って自分は個人の能力に多少の差はあれど、殆どそんなものはないと思っている。

結果を出すのに必要な最大要因は、文句を言っている口じゃなくて、行動する体だし、他社依存しない心だし、やり続けられる意思で、これは全部「自分の決定事項」だからだ。これがないと「そもそも」始まらない。

そして、行動を起こす次に必要な能力は「数学的思考」だと思う。

目標設定すると、そこに行きつくまでには様々な乗り越えなくてはならない過程が存在するが、そのすべては「素因数の集合体」で成り立っていると気づける思考があると、一見困難に見える事象を素因数に分解して「当たり前の集合体」にしてしまう。

どんなことも素因数に分解する事が出来れば、当たり前の集合体でしかないが、目標設定が高ければ高いほどその素因数の数が膨大になって行くので、数学的思考がないと素因数に分解できずに複雑化した困難なことだと認識したまま行動を起こす。すると、失敗や困難に直面した時にその原因が分からないので、「何を修正すればいいのか?」「どこを修正すればいいのか?」が分からない。

超がつく一流プロ野球選手が一流であり続けられるのは、年齢に応じて劣ってくる反応の遅れ、変化する仕組、ミスに対して、まず現状を分析する能力が高く、次に自分が「どういう練習を」「どのぐらいやって」「どの方向に」修正すればいいのかを、まず「頭で」理解して「体で」行動して「修正するまで」継続できるメンタルを持っているからで、そんなことは野球に限ったことじゃない。

素因数に分解することが出来れば要因は、今ある物質、思考、機械、参考書、話を聞ける先輩・・など全て同条件でしかないが、素因数に分解できないと、どこに行けばいいのか、誰に聞けばいいのかがなど起因すべき場所が明確にならない。

こういう思考でいると、それが習慣になり出来ないことは本来素因数分解できない「自分」が原因なのに、素因数分解「してくれない」他者に依存するようになる。

目標設定が明確で、現状の自己分析が明確だとその「差異」が明確になるので、そこにたどり着くまでに必要な課題、つまり因数が明確になるからこそ、その因数を「素因数に分解」し、やるべき「素」イコール凡事が浮き彫りになる。

ここまでは数学的思考だが、ここからは「徹底」という「意志の差」

様々な事象は、断片的な角度からの思考で解決できるわけじゃなくて、様々な角度からの思考を持って、いかにその因数を素因数に分解できるかどうかが大きな「key」になっているよね。

スーパーボウルと農業の現場と・

もはやこの言葉がふさわしいのか・・

物事を新たに生み出す人や、新たな時代を切り拓く人はいつの時代も必ず存在する。「今まで」や「みんなと一緒」という言葉を一生使って生きる人とそもそもの生き方が違う。43歳であのスーパーボウルで7回の優勝を手にしたQBのトムブレイディ。

昨年までの優勝常連とまで言われたチームから移籍しての今期の優勝は、明らかにこの43歳の彼の偉業であり、「今まで」使われなった「今年も!」「また!」トムブレイディがスーパーボウル優勝の立役者となった。

当然、43歳なので肉体的なピークは過ぎている。しかもプロの世界。毎年毎年、年俸数億円で契約されるような超ビッグスター選手がドラフトでピックアップされる厳しい世界で、毎年コンディションを整えて試合に出続ける凄さは想像に計り知れない・・。しかも戦略がモノをいうスポーツの世界の司令塔。毎年毎年、スカウティングして相手チームも完璧な戦略で戦ってくる。にもかかわらず勝ち続けるのは、肉体のみならず「頭のコンディション作り」がそれ以上にあるからで、リアルスーパーマンだ。

以前、元中日ドラゴンズ山本昌選手の番組があって観ていたが、彼は入団して間もなくクビになりかけていた選手だったし、プロに入って1勝する事が彼の目標だったと語っていた。それが50歳まで現役を続け、200勝以上の功績を残したプロ野球界に名を残す大投手になったのは、彼の「練習量」と「自己分析能力」と取り組む「姿勢」だなと感じた。

彼は40歳をすぎてから1日も練習を休んだことが無いと言っていた。若い時は1日休んでも次に日に、3日あれば・・と取り戻せたが、年齢を重ねるにつれて取り戻す期間が延びてゆくことを感じて、休むともう取り戻せなくなるから休まなくなったという事。

キャンプ中も他の選手がバスに乗ってグランドまで移動するにもかかわらず、自分はランニングで宿舎とグランドを移動していたことなど。そして40歳を過ぎた自分が50歳までプロの世界にい続けることが出来て、なお勝利できたのは40歳になるまでの練習、走った貯金があったからだと言っていたことは印象的だった。

どの世界においてもプロの世界で長く活躍される方々は、時代が変わっても、その方法が変わっても、科学が進んでも自分のコンディション作りや環境作りを自分で行うという事や、そのためにきっちりと時間とお金をかけて投資し、結果の「当たり前」を維持し続けることは変わらない。

そういう物事に取り組む「姿勢」を次世代が学びにくるわけで、「金」で人は集まらないし、いくら時間や金を使っても「姿勢」は見せられない。

農業や森林の1次産業の現場も同じことで、目の前の「今だけ、金だけ、自分だけ」発想でいてもセンスのいい人間は年齢関係なく「こういうことは続かないだろうな」と取り組む「姿勢」をすぐ見抜くし、それを見抜けない時点で生き残って行くだけ長期的視点から見た、自己分析能力が問われる。土から、森の中から「今だけ、自分だけ」を肥やしたり、楽をして次世代のための「時間」や「養分」を搾取し続けると、そこに次世代が育つために必要な「姿勢」つまり「教育」という変化に対応するだけの遺伝子を残す事が出来ないし、いくらそこに種子を落とそうともそれが育つだけの「土壌環境」がもはやそこにないと、その種子は「昭和の温暖な気候レベルの遺伝子」では生き残れず、「令和の激動に対応するだけの遺伝子」を持った種子が生き残る。

そもそも次世代に受け継ぐ時点で、受け継いだ種子の遺伝子の組成は変化しない。その後の環境要因で求められる対応力で変化は可能だが、対応力が身につくまではそもそも種子の遺伝子レベルが左右されるので、そこに達するまでの優位性は、やはり大きい方が生存競争で勝ち残る可能性ははるかに高い。

一次産業という職業もスポーツの世界も、環境因子を作るのは先を生きる人間の器で決まる。今だけしか見えずに、自分が楽をして搾取すれば次世代が育つことはあり得ないし、その後を見据えればその養分も少し残して、次世代が育つためのたい肥や養分を残しつつ、朽ち果ててもなお自分も次世代が育つ養分になろうとするかまでが視野にあるか否かは、今の「姿勢」を観ていれば容易に判断できる。

そういう学びが多い豊かな環境には、やはりポテンシャルの高い遺伝子を持った種子が集まるし、そういう環境は様々な環境要因に強い種子がまた交配されてゆくので、多様性を「遺伝子レベルで」変化する、環境要因に左右されない強い種子が生き残るというサイクルが形成されてゆく。

金のサイクルでものを考えていると短期的なサイクルでしかものを捉えられなくなるが、生物のサイクルはそんな短い目に見えるサイクルだけで成り立っているものではない。環境のサイクルなんて何百年ものサイクルだし、人の遺伝子のサイクルも数十年のサイクル。しかも人間のような高等生物になればなるほど、構成する遺伝子も複雑化して行くので、遺伝子変異を起こすことも難しくなるし、複雑化すればするほど起因する要因を特定する事が難しくなるもの。

今の結果は「今まで」の蓄積が構成している。

令和の環境を生き残る遺伝子をもった種子はもう撒かれた結果でしかない。

「姿勢」を学ぶ環境で育った種子か否かのような気がする。

成長分岐点

様々な分野の、様々な世代の、様々な思考の人たちと話すことで自分の思考や方向性が明確になるというのはよくあること。

だがこれは、「様々な分野」「様々な世代」「様々な思考」と触れるという経験をもった人にしかわからないことだし、それによってなぜ?ぼやけていた思考や方向性が明確になるのか?とうことも、それをいつも意識し解決策を模索し、明確化したいという意思を持っているからそのタイミングが訪れるが、それも体験した人でないと分からない。まさに「知号合一」。こういう「実体験」を繰り返すことでなんとなく大局的に物事を捉えることが出来るようになってきて、こういうことを解決するには大体このぐらいの労力や時間が必要だろうなとか、この案件はこういう分野の人に相談してきたらヒントがありそうだなと嗅覚が育ってくる。

つまり実体験が蓄積されて、確率が向上して行き、精度が増す。これが時間短縮につながりいわゆる「要領」がよくなる。

本当の「経験」とはつまりこういう事で、長く生きているから経験値が増すわけじゃなくて、自分で設定した「解」に対し、自分で仮説を立て、自分でその過程を考えた後、失敗した回数と、それを修正した回数の多さ。

だから人が想定した解や、人が決めた解や、いつまでも人の模倣を繰り返していても最初のうちは「経験値」は向上するが、ある一定水準まで達すると経験値は急激に蓄積されなくなる。つまりそこからの成長は「それぞれの解の設定」にあるにもかかわらず、人生において自分で自分の「解」を設定した経験を持たないとそこで行き詰る。

行き詰まり、未来を想定できなくなるから「過去の肯定」でしかなくなり、今度は過去に向かって歩みだす。

一方で、いくつになっても未来に歩を止めない大先輩方もいらっしゃいますが、まさにvintageのクラッシックカーに最新のエンジンやAIパイロット技術を備えた車の様な存在でしびれるし、惹かれる。

両者の分岐点は明確。

前者は「知っていること」以外を受け付けない(受け付けられない)、または自分の過去の成功体験から抜け出せないのに対し、後者は「知らないこと」も含めて「知っていること」も知らないこととして考えるし、過去の成功体験に捉われずにより良い未来を常に模索し続ける。

肉体的な成長と頭の成長は必ずしも比例しないが、前者のような思考でいると、肉体の前に頭が老化してしまう。頭の老化は行動の範囲を縮めてしまうので、水戸黄門のテレビが面白くなるように、同じ時間割で、同じところの入浴シーンと、善と悪で必ず善が勝つというお決まりパターンに安心するという思考に落ち着く。けれども、安心していても世の中はそんな単純な構成要素で成り立っているわけではないので、安心感はやがて危機を呼び込んでくる。

まあ分かりやすく言えば、紋所を見せているときに戦車で乗り込んでくる悪い奴がでてくるとそもそものドラマの設定が終わってしまうのと同じだが、現実社会のコロナは紋所や現在の医療のレベルには合わせてくれないのと同じこと。つまりテレビ局側が視聴率をとるために「終わらせない仕組みや設定」をしているに過ぎない。

どんどん「解」が定まらない時代に突入してくると、この「大局観」をもっているのかどうかの差が大きく浮き彫りになるような気がする。

大局観は目に見えないものだが、そもそもの行動を起こす上での「確率論」で明らかに差がつく「根拠の分母」と同じことで、これはノムさんID野球と同じこと。

「読み」は「あてずっぽ」とは大きく違って「根拠に裏打ちされた確立論」

答えがない世の中で成長を続けていくためには、無限の失敗ではPhysicalの前にmentalが持たない。