チャレンジする人を応援できる人と足を引っ張る人

自分が就農してもう20年過ぎたが、就農当初から応援して下さった方とは未だに交流が続いているし、当然のことながらお世話になった「義理」がある。

お世話になった方の後継者の息子さんにある時言われたこと。

「僕たちより、押谷さんの方が農業経験長いんですよ・。新規就農する人でも、僕たちにとっては農業の先輩になるんですよ。いつまでも新規就農者ってうちらのおやじたちが言ってるのもどうかと思うんですよねw」って。

自分がお世話になった先輩方の後継者の人がもし困ったことがあれば、その相談に乗るのは当たり前の事だし、それはお世話になった先輩に対する義理だから当たり前の事だと思う。時間は有限なので、使いたい時間を使いたい人、事に優先して使うのは当たり前の事。

守ってきた伝統やしきたりも、歌舞伎や老舗のように、「変化するからこそ」次世代に受け継がれて数百年もの歴史として今があるわけで、そのままやってきたことを残そうと必死になっても、今を生きる人がそれを必要としないと今の時代に置いて行かれて「過去」のものになるだけ。

新たに参入してくるベンチャーと同様に、それを受け継いできた人たちの中にも、ちゃんと時代感覚を捉えてチャレンジしようとしている人たちはたくさんいるけども、どうも今までと違う事や、チャレンジする事を称賛できない世界は逆にそれも「伝統」になっている。

チャレンジするということを称賛できないのは、「自分もチャレンジしてこなかった」証し。自分がチャレンジする事で、失敗も、その根拠もたくさん蓄積されるし、それは全部自分の引き出しとして蓄積される。引き出しの数が多ければ多いほど「大局観」が身につくので、大体の方向性の検討がつくから「まあまずやってみ!」と言えるようになる(はず・・)

どのポイントが致命傷になるのが想定できると、その1歩手前で止めればいいし、そこまで行くことで、チャレンジした側も「これはうまく行かなかった・・」と理解できるもの。それを修正できるからこそ本当の経験であって、それこそが「亀の甲より年の功」と言われる所以。まさに、先を生きる「先輩」。

チャレンジする人を応援できずに足を引っ張る人間は、チャレンジした人間が上手く行くことで、チャレンジしなかった自分が置いて行かれることを自覚するのが怖いから。

そもそも、チャレンジする人が上手く行く、行かないに関わらず、チャレンジしない人は置いて行かれてるので、それは全く関係ない。

チャレンジしないのにただ足を引っ張るだけの人の周りからは、次世代はどんどん離れてゆくのは、いつの時代も変わらない。

たまたま上手く行くことはあっても、たまたま失敗する事はない。失敗する事をたくさん積み重ねることでしか「年の功」は刻まれない。

楽しいよね。チャレンジする人が自分の周りにたくさんいることは。いつも刺激と学びをもらえる。まだまだやらないとと思う。そういう環境にいると、愚痴より喜びや共感が常にあるしね。