アインシュタインの言葉

アインシュタインの言葉で次のような言葉がある

「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」

18歳までかどうかは別として、自分も同じようなことは学生時代にも言われたことがある。
今になって、その言葉は「なるほどそうだな」と思うようになってきた。

「お前が将来助けてもらえるのは、全くこんな人とはかかわるはずがない、こんな人とは仕事することはないだろうなと思っていた人の一言がお前を助けてくれる」
「30代までは自分に投資しろよ。リターンなんか求めるな。30代までで投資しとかんと、お前が40代超えたときに帰ってこんぞ」

確かにどちらもこの年になって本当にそう思う。同じ方向性からモノを見ていて行き詰るのは当然で、そもそも自分の努力不足、勉強不足で、その辺りは本来自分でクリアーしていかないとダメなレベルなんだろう。同業種に聞いて出る答えは、逆に行き詰る点も似ているので打開点が既存のものでしかない。それでは、自分もまた同じ場所で行き詰ることはすでに見えている。この時点の自分の悩みは、まだまだ単に自分の力不足で、本当の意味での行き詰まりに達するということは、同業種や自分の生活圏で答えが出なくなったときに初めて「本当の悩めるレベルに来たんだな」と感じる。
その先を見越して考えるからこそ、同じ場面に出くわしたときに、異なる視点で異なる方法論で、そこを打開して行きその次のステップに行くのだと感じる。
自分の知らない世界観や異業種の方々からは、思いもよらない方法論が飛び出してくる。これは、既存の中から
や、同業種からは出てこない。
今の時代、同業種発想の枠では、おそらく限界点に来ているのだろうと感じる。
あんな有名企業が、あんな大会社が・・倒産する時代に入った。
そういう意味で、うちみたいな超零細企業がその前例にならっても、前例にもはや答えはない。
大きいからではなく、今まで実績があるからではなく、「今後どう変化してゆくのか?」を考えて、それに「即座に」対応、行動、検証し、修正しないとダメな時代に入ったんだなとつくづく感じる。

そういう意味で、自分の能力といつも相談しながら、進歩させ、限界を追い求めつつも「農業をなぜ?始めたのか」を忘れることなくかつ、自分の器を見誤らないようにしておかないと、周りに流されてしまうのが一番怖いこと。
大きなうねりに流され始めればそれは楽だが、反面それはもう、時代から取り残され始めるスタート。
いつも大きなうねりの陰にある、小さな反対意見や、相手にされない新しい発想こそがまさに次の時代のスタートを生むことだけは忘れないようにしておかないと危ういなと思う。