加減乗除

加減乗除は小学校で習う算数なのは言うまでもない。
自分は、大学を卒業して一度就職をし、再び農業系の短期大学に入りなおした。

その理由は、「農業の知識・経験・知り合い」すべてゼロだったから、勉強する意味と農業関係の人とのつながりを作るためだった。卒業後、確かに農業関係の交友関係は出来て今でもそれは大いに役立っている。しかし、思いもやらない副産物があったのだ。入学した短大には「保育科」があって、小さい大学のため保育科の教授の方々とも話すことや、保育の仕事に帯同することもあった。これが、農業をした時にも思考の幅を広げてもらえるとは、よもや思わなかったが、これは経験した人でないとその方面からのアプローチ的思考は出来ない。

様々な話をする中であるときこういうことを訊いてみた。たぶん、勉強嫌いな中学生や高校生の時に一度は言うセリフだと思う。(東大や京大に入る人たちは言わないんだと思うが・・)

「なんで学生時代に、基礎解析や微分積分勉強したり、オームの法則勉強したり、化学式勉強したり、コブン勉強したりするんですかね?こんなもん、社会出てから一つも使わんでしょ、研究職以外?」と。まだ若かった自分はこう質問した。

そうすると
「確かに、そんなものはごく一部の人しか卒業した時は使わんよ。だけど大事なことは、数学的思考、社会からみた思考、芸術的感性・・など、『・・・的な感性や、・・・的ものの見方』が重要だから基礎教育っていうのがあるし、義務教育っていうのがある」と知った。確かになるほどなと感心したのを覚えている。

話変わって、今自分は農業をして18年が経過した。たった18年間でも農業を取り巻く環境は変化したし、今なおその変化はスピードを増して変化し続けている。
自分が住む地域でも人は減る一方だ。この「人が減る」という裏側には相当数の意味合いが隠れた言葉だ。

人が減るというのは、単純に農業者が減るから規模拡大すればいいだけなんてのは単純すぎてだれでもわかるのでどうでもいい話。あえてそれ以上は触れない。
人口が減少する弊害は、その市町村に降りてくる交付金の額も国から減るということ。人口が減って行くのは、単純に数が減るだけではなく、労働生産人口が減り、税収が減り、人口に対して占める高齢者割合が増えるとそれだけ労働生産人口にかかる税の負担が増えてゆくし、その負担は地方ほど大きくなってゆくのは簡単な算数でわかる。
また、それに伴って今まではなかった「空き家問題」や「病院や道路」などのインフラがちょうど老朽化を迎えているので、今後は維持管理にも資金が必要になる。また、年金、保険、医療費なども増えてゆく一方なのも簡単に理解できる。が、労働生産人口は減って行く。
別の問題も、(別に今始まったことではないが)地域の社会構造の維持や、農道の草刈りなども今後5年くらいで問題になってくる。

つまり、これまでなっかた問題が増えてくることはつまり足し算であり、人がいなくなることは引き算だ。かつ、世の中の変化に伴って、やらなくていいことを整理するのは引き算だし、逆に高齢者が増えることで新たな取り組みなどが増えることは足し算だ。つまり、人が減るということで、何を整理しというまず引き算をし、何が新たに必要だから足し算をし、現状の人数で割り返さないと、足し算のみで割り算しても数字が合わないことに早く気付かないと、限界点を超えたものは「できない」という選択肢が発生する。物理的に不可能なものはもう不可能なので工夫や根性論でなんとかできるものではない。
今までもそうであったように、「なぜ?」農業の後継者が減り続けているのか?という視点に目を向けないと、今まではそれでも異論を口にするものを「村八分」という形で済んだ。
そもそもそれは、一人二人いなくても、絶対数が多かったのでそこをうやむやにしていてもそれで済んだからだが、現状はそうはいかない。絶対数が減少した今は、その一人の負担が大きくなってきている。それでも多様性を受け入れない、今までがこうだったからはそれで構わないが、そのツケは次の世代に大きな負債になって確実に受け継がれてゆくことになる。

これは、経営的概念とも共通しているといつも感じる。現状において、何が必要で何が不必要か?優先順位はどれからなのか?自分のゴールからかんがみて、それは本当に必要なことなのか?それは自分のキャパからしてオーバースペックではないのか?
今年の冬は、優良経営者にたくさんお会いできたので攻めるべきところと、今責めないところ、まねすべきところ、まねすべきでないところが明確になったな。

最後は、たった70回から80回ほど正月迎えれば土にかえる「自分の人生」ですからね。