長くやればやるほど・・落とし穴

農業を始めて20年以上が経った。

無駄に時間を過ごしてきたわけじゃなく、1日1日必ず「意識」して生きている。

意識しない50年は意識して生きる1年にはかなわない。

意識しない50年は、1日、1分を意識しない積み重ねだから。

20年たったから当然分かることや出来ることが増えるが、これはあたり前。

よく年数を自慢する人がいるが、年数を自慢しだしたらもう終わりだからそこは気をつけないと・・。

やることが明確で、どんどんアイデアもあり、結果が出るときには必ず「未来」を変える話しかしない。未来を想像できなくなると「過去」の話が始まる。

過去の栄光は自分だけのものであって、今を生きる人には無関係で、過去の栄光に人は賛同しない。賛同は、今と未来に向けられる。

逆に、20年たってもわからい事もたくさんあるが、これもあたり前。一生かかってもわからないことの方が多いので、失敗も、分からないこともまあ、みんなに平等だ。

一番の落とし穴はここにない。

20年たったから、逆にわからなくなっていることには、常に意識していないと気づかないという事。これが一番危険なこと。

長くやってると、誰でもそれなりに出来るようになるが、それはあたり前の話で、20年やってるのに1年目と同じじゃ19年間無駄に生きてる事になる。

長くやっていると、長くやっている事が目的になり、変化や進化を見過ごして行く。

それが長年の「悪い」経験、習慣になっていることに気付かなくなりいつの間にかそれが当たり前になり、対応力が劣って行く自分に気付かなくなる。

50歳になる自分によく「まだまだ若いんだから・・・」という人がいるけれども

たぶんそういう人の周りには、同年代しかいないもの。

自分の感性や、体力や集中力が低下してきていると認識できるのは、それを感じさせてもらえる今をリードする「一線級」の人と接する機会を持てている幸せ。

「一線級」と接していると「やば!すげーな」と感じるので、なんとか悪あがきしてついて行こうとするからまた新たな知恵や技術、要領が生まれる。それは今までの中から生まれるものじゃなくて、「今から」の人から学んだり、もらうもの。

だから常に対応すべく、勉強し、質問し、努力して対応する。

対応できなくなったらその時はもう引退する。

ただそれだけ。

その日まで自分は悪あがきしてでも、自分の人生を自分の手中に収めているそういう楽しい場所にいたいもの。

 

確かにコロナですが

コロナウイルスの広がりで世の中は大変な状況。

医療現場で最前線で働いていただいてる方々には本当に頭が下がります。

どんな場所でも、いつの時代もやっぱり現場で実際に動く人が一番大変で、現場の答えがいつも正しいんだよ。現場に行かないで机上でいくらシュミレーションしても、その通りに行くことはない。

通常の業務で、事故とか急患とかで緊急を要する患者さんプラス現在の状況なんだから、自粛して出歩かないで自分が少しでもかからないように対策しないと、業務はどんどん足し算されてゆく。現場の方々にもご家族がいらっしゃって、毎日職場に向かうのもうちに帰るのも大変なストレスと戦ってることなんだろうと想像するけれど、自分が想像するきっと何倍も大変なんだろう。

だから、本当に不要不急でなければ家にいることが、自分の身も、家族の身も、最前線で働く方々の家族もみんな守ることなんだろうな。

家にいることとか、人に出会わない場所にでかけることでストレスの回避も、普段できなかったこともできるんじゃないかと考える。

自然のなかに身を置くこともそうだろうし、すっごい手間暇をかけた料理をしてみたり、読めなかった長編小説にトライしてみたりとか・・

それが今一番必要な時間の使い方じゃないのかな。

 

そういう時間を過ごすことで、新たな発見があるかもしれないのにね。

 

自分は普段から大自然の中が職場で、人ともほとんど接しないので普段通り、今の時期は休む暇なく激務が続いています。

今も、そしてこれからの終息後もいつも通りの食の供給をするために今できることをきっちりと仕事します。

 

悩めるということは・・

人を動かすことのできる人は、他人の気持ちになれる人である。

その代わり、他人の気持ちになれる人というのは自分が悩む。

自分が悩んだことのない人は、まず人を動かすことは出来ない。

とは本田宗一郎氏の言葉。

悩むことがストレスだとか、悩むストレスから逃げてもそれは

頭の引き出しが増えるわけじゃない。

悩みは、何か「今までにないこと」に直面した時に生じることであって、

今まで通りの延長線上には悩みは存在しない。

悩めるのは悩める対象があり、それは自分が成長するきっかけみたいなものなのに、

いろんなことから逃げる「逃げぐせ」がつくと、それを全部他人に押し付ける。

出来るか出来ないかは他人が決めることじゃなくて、それは全部

「自分が出来ない」と判断を下した結果。

それは、自分が悩みたくないから。

そんな姿勢を次世代に見せても「あー自分はこうなりたい」とは思うわけがない。

 

自分が接してきた先輩はいつも

「お前らが分からんのは俺の言い方が悪かった」

「俺には返さんでもえーから、お前がまた次に若い奴に同じことをしてやれ」

という器のでかい人に逢ってきた。

そういう自分が「こうなりたい」という先輩は、いくつになっても尊敬できる「ひとの資質」と「ぶっとい芯」が揺るがない。

そういう先輩はいつも次世代のために悩んでくれた。

そしてそこには最初から、見返りはなかったもの。

自分も「悩める」のは幸せだと思う。

               

なりたくない人間からの指図

いつの時代もそうだが、人が集まる場所、人が集まる地域、人が集まる人とその逆がある。

結局のところは、「人」がそれを形作る素因子だ。

人が集まる人がいる場所が、たくさんあるのが人が集まる地域になるし、人が集まりたくない人がいくらいてもそれは人が集まる場所にも、地域にも発展しない。

では、人の集まる人とは?

単純な話それは「その人のもつ魅力」でしかない。

 

長く生きているから、若いから、男だから、女だから・・そんなことは全く関係ない。

年配者でも考え方が錆びない人はたくさんいるし、いつまでも変わらないモノを伝えられる人は貴重な存在だ。

人の言いたくないことを先頭を切って言えるという人もなかなかいるもんでもない。が、そいうことを言う人がいないと何も変わらない。

 

リーバイスジーンズは押し付けられて買ってるんわけじゃなくて、「いいから」買うわけ。次の世代が「それが必要だから」買うわけで、必要でないものは自然淘汰されてゆく。

時代遅れのファッションを押し作られるのと同様に、

「俺たちがこの服着てたから、お前もこの服着ろ!」と言われてるのと同様に

「俺たちがこうやってきたから、お前たちもこうしろ!」はもうその時点で選ばれていないんだよね。

本当にいいことは、次世代がすでにそれを察知して言われなくても勝手に引き継いでゆくし、そうゆうモノや考え方のある人には常に「次世代」が学びに集まる。

 

ファッションと同じでその時代で新たに生まれるものに対しては、流行だけのその場しのぎのその時点でしか通用しないモノは「ただの流行遅れ」だから

「そんなダサい服は着たくないですよ」って言うのはあたり前で、それは着たい人が来てればいい話。

一方で、古くなればなるほど「ビンテージ」感が増して行くモノに関しては、本質的な部分は全く色あせることなく、その本質は次世代が引く継ぐ。

むしろそれは、「古いかっこよさ」の価値が増すもの。

 

どんな業界でも同じでね、変わらないモノと変えてゆくべきモノをしっかり線引きして、自分がどちらに重きを置いて行くのかを誤るとただの流行に乗っかっただけの人生になる。

流行はあくまでも流行でそれは一時だけの話。

継続することには意味がある。

だだ継続の時間軸の概念も、それが10年なのか、50年なのか、1000年なのかで

取るべき行動も、学ぶべき人も異なる。

それは人それぞれ異なってるのが当たり前なんだけどね・・

 

大局観の大切さ

なるほどね・・・

最近読んだ本の内容でね、面白いなと思った内容。

センスの悪い国で精密なマーケティングを行えば、センスの悪い商品が生産されて、センスの悪い商品がよく売れる。

センスの良い国で、精密なマーケティングを行えば、センスの良い商品が生産されて、センスの良い商品がよく売れる。

商品の流通がグローバルにならなければこれで問題はないが、センスの悪い国にセンスの良い商品が入ってきた場合、そのセンスの良い商品に触発されて目覚め、よそから来たそのセンスの良い商品に欲望を抱く。

しかし、その逆は起こらない。

ここに大局観をみる手がかりが存在する。

問題は、「いかに精密にマーケティングを行うか」ということではなくて

その企業が対象としている欲望の水準をいかに高水準に保つかということと同時に

意識し、こういう点に戦略を持たないとグローバル化した現代において、その企業のもつ商品が優位に立つことはない。

 

これは、何も企業戦略に当てはまることだけではない。

会社の経営においても、経営者が大局観を持ち合わせていないと、会社の経営においても陥ることだし、人口が減少し続ける場所にも同じことが言える。

一方で、減少する地方や産業にも関わらず、きちんと新たな次の世代が入ってくる会社や地域は、対局感をしっかりと持った次世代にマッチした戦略があるからだと思う。

 

そもそも大局観という概念を持つには、他者、異文化、異なる概念など

自分の知らないことが存在するんだという「教養」という概念を持たないと、その人には大局観という概念はそもそも存在しない。

ある会社の常識が、他の会社では非常識。あるいは、その地域の常識は他の地域の非常識だということも同様で、他の組織や集団を知っていれば世間での常識がそこで通用しない常識だと気づくが、同じ組織にずっといるとそういう相対化は困難になる。

つまり、「狭い世間」の常識が、社会という「広い世間」の常識と異なることに気付けない。

それを解決するには「自分が所属している狭い世間の掟」を自ら見抜けるだけの異文化体験を持つこと。異文化に触れた際に、それを現実として受け入れるだけの度量を持つこと。

また、目の前でまかり通っているルールや評価基準を相対化、客観視して見るだけの「知性や教養」を持つしかない。

それは、他者がすることではなくて、自分がすること。

なぜならそれは、判断基準は人それぞれ、会社においては経営戦略や方向性が異なるから。

そして、未来を担う人材は、それぞれの自分の考え方と合致する企業や社会に身をおく。だから、差別化できない組織や、弱みと強みを客観視できない組織、売る上げを上げることに必死で社員がそれに疲弊していることに気付けない組織などはもう選ばれない組織になっているんだなと感じる。

 

すごいなぁと思えることは幸せだと思う

自分も就農してからもう20年になる。今年で50歳になる。

バカボンのパパが41歳だから、もうかなり後輩になるんだな・・・w

農村地帯では、50歳は「若い人」だし、いまだに「よそ者」だし、

いまだに「新規就農者」と言われる。

世間一般社会では、学校の現場なら教頭先生或いは校長先生の年代だし、勤めていれば部長、課長の年代でいわゆる「管理職」と呼ばれる。

年代的に言えば、現場に出るのではなく、部下の「方向性」や「指導」、そして「人財の育成や教育」というのが評価の対象になる。

つまり、頭の引き出しの多さや、責任の有無が問われる年代だ。

まさか「若い人」とは言われないし、普通に就職して5年もすれば後輩がいるので、先輩、上司から「お前何年やってんの?」と言われるのが当たり前。

 

そんな年になったんだと思う。

なぜ、そんなことを考えるかというと、自分の周りには、自分よりも若くても

「すごいな!」

「できるな!」

「いやー新しい発想やなー!」

と思える人がいるから。

自分は、自分の方が年が上だから自分が正しいとは全く思わないし、むしろ、年が上なのに知らないことや、出来ないことの方が恥ずかしいので教えてもらう。

聞くは一時の恥だけど、知らぬは一生の恥。

頭の引き出しがあって困ることはないが、なくて困ることは、年代が上がるほど高まってゆくもの。

物忘れがひどくなったのか、やることが多くなったのかは定かではないが、忘れることが多くなった。

忘れることが多くなったことが問題じゃなくて、忘れることが多くなったことを認識するのか否かが重要で、だからなんでも忘れないうちにメモしたり、携帯のスケジュールにすぐに書き込むようにする。

 

もういいおっさんなので、体力も感性も、「自分が思っている」ほど大したことないんだよなw

でもそれを自覚しないと、時代遅れの感性を押し付けたり、無理してケガをしたりするもの。

方向性を確認し、自由に考えさせて行動させないと次世代は育たないし、行動させて経緯観察してからでないと「叱る」こともそもそも出来ない。

出来ないことは聞き、結果が同じであれば今に合ったか形に変化させればそれでいい。

出来ないのであれば任せるし、任せたものは口出ししたら、任せられたほうの「モチベーション」が下がる。それは、やる気のある人間やモチベーションの高い人間ほどそう思うもの。

モチベーションを活かせないのは管理職の管理不行き届きと評価される。

その時に必要な管理能力が「任せる」ことと「尻ふき」が出来るかどうか。

 

若い人たちの能力が無いんじゃなくて、活かし方が時代遅れだと活かせないだけの話なんだよな。

いつの時代もそれは同じだと思う。

だから人の集まる場所と集まらない場所があるんだよな。

集らないのは環境のせいでもないし、田舎だからでもない。

自分のところに集まらない、自分の言うことを聞かない、自分のもとで育たない本質は「自分にある」と理解していなから。

「今までの自分」に固執し、捨てられない、変われないから。

 

今、新たに農業を始める人達の発想はなんか全然違って面白いし、違う発想を知ることは楽しいし、変化する自分を見ることも楽しい。

自分よりもすごいなあと思える人がたくさんいることは、それだけ自分の可能性もまだまだあると思えたなら楽しいのにね。

 

 

 

 

 

興味と取捨選択

未だに様々なことに対する、興味や探究心は尽きない。

業種問わず、良いと思う話は聞きたいと思うし、選択肢は常に多い中から選んだ方が後悔が無い。

自分は、経験とは必ずしも年齢に比例するとは思わない。

経験とは、何年生きてきたかよりも、どうやって生きてきたかの方が遥かに経験値が高いと思うから。

だから、自分よりも若くても、自分の経験していない観点からモノを観れる人は、自分の持っていない視点を持っているのだし、自分が知らないことを知っているのは事実。また、自分の経験していないことを経験していることも同様。

全てのことを自分の人生で知ることも経験することなんて、不可能。

だから、知らない、経験していないと聞いてみる。

知ることは楽しいし、学ぶことは楽しい。

それはつまり、自分の知らないことや、経験していないことがあることを知る、学べるから。

しかし、時間は有限なので、知ることと出来ることは別。

そこで判断と、選択が迫られる。

情報を仕入れるための時間を使いすぎると、行動に移す時間は減る。

逆に、行動に移すだけの時間では、必ず行き詰るときがくる。

自分に必要な情報を取捨選択して、自分なりのスタイルを持って「常に」模索しないと、選択肢が多ければ多いほど迷いが生じるし、すべてが中途半端、2番煎じで終わる。

情報と行動。質と量。鳥の目と虫の目。グローバリズムナショナリズム

様々な選択肢がどんどん飛び込んでくる中、二律背反を、時代感覚を持って、新旧を上手く融合させ、判断し、取捨選択し、行動できることこそが常にオリジナルだし、オンリーワンの価値を生み続けるんだろうなと思う。