なりたくない人間からの指図

いつの時代もそうだが、人が集まる場所、人が集まる地域、人が集まる人とその逆がある。

結局のところは、「人」がそれを形作る素因子だ。

人が集まる人がいる場所が、たくさんあるのが人が集まる地域になるし、人が集まりたくない人がいくらいてもそれは人が集まる場所にも、地域にも発展しない。

では、人の集まる人とは?

単純な話それは「その人のもつ魅力」でしかない。

 

長く生きているから、若いから、男だから、女だから・・そんなことは全く関係ない。

年配者でも考え方が錆びない人はたくさんいるし、いつまでも変わらないモノを伝えられる人は貴重な存在だ。

人の言いたくないことを先頭を切って言えるという人もなかなかいるもんでもない。が、そいうことを言う人がいないと何も変わらない。

 

リーバイスジーンズは押し付けられて買ってるんわけじゃなくて、「いいから」買うわけ。次の世代が「それが必要だから」買うわけで、必要でないものは自然淘汰されてゆく。

時代遅れのファッションを押し作られるのと同様に、

「俺たちがこの服着てたから、お前もこの服着ろ!」と言われてるのと同様に

「俺たちがこうやってきたから、お前たちもこうしろ!」はもうその時点で選ばれていないんだよね。

本当にいいことは、次世代がすでにそれを察知して言われなくても勝手に引き継いでゆくし、そうゆうモノや考え方のある人には常に「次世代」が学びに集まる。

 

ファッションと同じでその時代で新たに生まれるものに対しては、流行だけのその場しのぎのその時点でしか通用しないモノは「ただの流行遅れ」だから

「そんなダサい服は着たくないですよ」って言うのはあたり前で、それは着たい人が来てればいい話。

一方で、古くなればなるほど「ビンテージ」感が増して行くモノに関しては、本質的な部分は全く色あせることなく、その本質は次世代が引く継ぐ。

むしろそれは、「古いかっこよさ」の価値が増すもの。

 

どんな業界でも同じでね、変わらないモノと変えてゆくべきモノをしっかり線引きして、自分がどちらに重きを置いて行くのかを誤るとただの流行に乗っかっただけの人生になる。

流行はあくまでも流行でそれは一時だけの話。

継続することには意味がある。

だだ継続の時間軸の概念も、それが10年なのか、50年なのか、1000年なのかで

取るべき行動も、学ぶべき人も異なる。

それは人それぞれ異なってるのが当たり前なんだけどね・・