ブランド力とは・・
先日ブランディングについてのZOOM会議に参加したが、結局のところ「令和」」の時代においてのブランド力と「昭和」の時代においてのブランド力とはすでに異なっている位置にあるんだろうなと「確信」したこと。
ブランド化するなんていう言葉だけを追って、宣伝広告費や営業にいくら資金を投資したところでそんなものでブランド力が構築できるなら、大手や資本力のある所だけでしかブランド化して行かない。また、長くやっていればブランド化しているかというとそれもまた全く違う。設立して短期間でも、或いは規模が小さくてもブランド力のある企業、会社、個人事業者はいくらでもいる。
そもそもブランド力はつけようと思って付くものじゃなくて、求められる声が多くなってきてブランド化して行くものだし、いくら宣伝広告やインターネットでこの情報過多の時代に情報を垂れ流しても、そんなものは安売りのチラシの価格ほどの価値ほどしかないと思う。そもそも、世間一般で言われているブランド商品には、支払う対価、期待、想像、サービス以上のリターンがあるからで、だからリピートと口コミで広がる強さがそれを支えている。
さらに、令和の今の時代には、商品力だけや長くやってきただけではもはやそれも衰退しつつあるように思う。人間は常に「飽きる」から。
令和の情報が溢れている時代に人の「興味」や「共感」や「賛同」を得ないとそれは成り立たない。それは大手ではなくてもむしろ出来る時代に入った。
そこにあるものはその主体が持つ「イズム」や「生き方」「今までと違う何か」「そこでしか手に入らないモノ・空気・環境・癒し」など「既存の枠組みからはみ出した」部分だなと思う。或いは「今までにない何か」。
それは資金を投資しなくても出来るし、逆に長くやっているからこそ見つけられないものでもある。また、環境や考え方の異なる世界に身を置いたこと経験がないと、また異論や反論や議論、競争を避けている環境に育ってくると「刺激」による「現状を認識」する機会に巡り合うことがなくそれが危機管理能力をどんどん削がれていることに気付かなくなる。そうしているうちにある限られた意見や考え方こそが「絶対」だと脳に刷り込まれて、その限られた意見や行動をなぞっているとそれが「安心感」に変わってしまう。
それは、自分の周り(たった15人)みんなマスクしてないし、うがいも手洗いも手指消
毒もしてないから自分もしなくても大丈夫。なぜか?今まで大丈夫だったから絶対コロナにかからない!
というのと変わらない。
これからは昭和の「同じものならより早くより安くの既定路線の延長線上」つまり大手がそれを引き受け、子、孫、ひ孫・・での時代じゃなくて、それは「必要」なのか「不必要」なのか、その企業や個人を「応援したい理由があるのか」「そこになぜ行ってみたいのか」「その人にしか聞けないからその人に逢いたい」など・・生き方や価値観が変化してしまったし、もうそれに気付いているから。
昭和平成の金(資本力)から人や時間(知恵・生き方・思考・空間)に一気にシフトした。つまり人と違う「生き方」つまり「そういう人の存在」こそがブランドに変わった時代になった。
情報と咀嚼力
スマホや携帯を持つ事、PCやクラウド管理を行う事で簡単に情報や数字やデータが手に入る時代になった。数年前に比べると、簡単に「答え」が手に入る時代になったんだなと思う。
一方でそれだけに頼っていては、情報操作されればいとも簡単にそちらに行動を規制、操作、誘導されていることに気付かなく生きている。
自分はよく言っている事だけど、農業の世界でクラウド管理が進み、PCで全自動管理が可能になり、誰が作っても簡単にトマトの糖度が12度ぐらいになってしまうといつの日か
「昔のあんまり甘くないトマト食べたいよなー」とか
「昔の青臭くて土の香りのするトマト食べたいよなー」とか言う時代が来て、「甘くないトマト」の価値が上がる時代がやってくるんじゃないかと思う。
便利を「簡単に」手にした人と、「不便」を創意工夫で「自分流に便利に作り替えた」人とは、全員が同じ答えを持つようになったときに「意図的に」マイナス要因やプラス要因つまり、「違い」を引き起こす事が出来る。
他者依存して「自分で考える」という事を一度味わってしまい楽な方向に行ってしまうと、それがいつのまにか「習慣化」し、もう「しんどい」方向には戻れない。
常に自分で様々な変化や、情報を「咀嚼」して「判断」することを習慣にしていると自然と嗅ぎ分ける「臭覚」が身についてくる。つまり、感性が育つ。
未来を構築するのは「過去」データじゃなく未来を「想像」する力だから、これはスポーツの世界や麻雀の世界同様、「根拠のある確率論」になる。
昭和時代のように、同じ仕事なら「より安く」「より早く」が価値基準として評価された時代から、「ないモノを生み出す」つまり、「自分でこうなりたい」「こういう世界を作ろう」という「解」を想定し、その過程を構築し、計画を逆算し、必要なものを収集するということを「オリジナリティーを持って」これも他者依存することなく「行動」しないと、消えてしまう時代に変わってしまった。
楽は苦の種、苦は楽の種
人生はプラスマイナス同じ
高くとぶやつはその分しゃがんでる
これからの差は、これまでの差が出る時代にかわるだろうな。
論語の教え
志学 15歳 私は15歳の時に学問で身を立てようと決心し、
而立 30歳 30歳に学問の基礎ができて、自立できるようになり、
不惑 40歳 40歳になると心に迷いがなくなり、
知命 50歳 50歳の時に天が自分に与えた使命を自覚し、
耳順 60歳 60歳になると耳に入る言葉は何でも素直に受け入れられるようになり
従心 70歳 70歳になると自分が思うことをしても、人の道を踏み外さなくなった
とは、孔子が弟子に語った言葉。
時代が変化しようと、場所が変わろうと「本質」の部分は変わらない。
ということは、15歳で学問を志す事が無いと、30歳になっても自立できずに、40歳になっても周りの意見や生き方に惑わされ、50歳になっても自分の生きる方向性、自分がなすべきことを知ることもなく、60歳になっても狭い世界観や、過去に捉われたまま頭の引き出し増えず、時代感覚に取り残されるがゆえに「あーなるほど、そうなんだ!」の一言が言えず、70歳になってもとんちんかんな事を言い続けるから、学びに来る人がいないという事か・・
どんなことも、基礎がズレているものの上に築いても、崩れる場所は基礎の部分。毎回崩れる場所は同じ。それに気づけば、分からないことはすぐに聞くし、やり直すなら今すぐやり直す。
建物も、スポーツも「本質」の部分は変わらない。
手段に捉われても、手段は時代に応じて変化する。固定電話はスマホに変わったが、遠方と会話するという「目的」は変わらないし、情報収集も、ネットの普及で格段に向上した。今、辞書をひく人がどれだけいるのだろうか?
ただ、便利になり、容易に結果だけを手に入れる事でプロセスを築く習慣がなくなったことで、その過程において「思考すること」「失敗する事」「リカバリー能力を向上させること」「協力する事」「当たり前の事は何一つないこと」などを認識する機会は失われて来ているんだろうなと思う。
学ぶべき人を持つということは幸せな事。
コロナで世界も一変した。世界が変わるということは、一瞬にして必要と不必要が振り分けられるという事。まさに、ブレブレの基礎の上に築いてきたものは変化に対応すべき、踏ん張った瞬間に足元が滑って前に進めずにその場に置いて行かれる。
その時に、変化を許容し認識しないと協力者や賛同するものは得られない。
始まりの始まりに、どういう環境に身を置くかは大きいもの。
長くやればやるほど・・落とし穴
農業を始めて20年以上が経った。
無駄に時間を過ごしてきたわけじゃなく、1日1日必ず「意識」して生きている。
意識しない50年は意識して生きる1年にはかなわない。
意識しない50年は、1日、1分を意識しない積み重ねだから。
20年たったから当然分かることや出来ることが増えるが、これはあたり前。
よく年数を自慢する人がいるが、年数を自慢しだしたらもう終わりだからそこは気をつけないと・・。
やることが明確で、どんどんアイデアもあり、結果が出るときには必ず「未来」を変える話しかしない。未来を想像できなくなると「過去」の話が始まる。
過去の栄光は自分だけのものであって、今を生きる人には無関係で、過去の栄光に人は賛同しない。賛同は、今と未来に向けられる。
逆に、20年たってもわからい事もたくさんあるが、これもあたり前。一生かかってもわからないことの方が多いので、失敗も、分からないこともまあ、みんなに平等だ。
一番の落とし穴はここにない。
20年たったから、逆にわからなくなっていることには、常に意識していないと気づかないという事。これが一番危険なこと。
長くやってると、誰でもそれなりに出来るようになるが、それはあたり前の話で、20年やってるのに1年目と同じじゃ19年間無駄に生きてる事になる。
長くやっていると、長くやっている事が目的になり、変化や進化を見過ごして行く。
それが長年の「悪い」経験、習慣になっていることに気付かなくなりいつの間にかそれが当たり前になり、対応力が劣って行く自分に気付かなくなる。
50歳になる自分によく「まだまだ若いんだから・・・」という人がいるけれども
たぶんそういう人の周りには、同年代しかいないもの。
自分の感性や、体力や集中力が低下してきていると認識できるのは、それを感じさせてもらえる今をリードする「一線級」の人と接する機会を持てている幸せ。
「一線級」と接していると「やば!すげーな」と感じるので、なんとか悪あがきしてついて行こうとするからまた新たな知恵や技術、要領が生まれる。それは今までの中から生まれるものじゃなくて、「今から」の人から学んだり、もらうもの。
だから常に対応すべく、勉強し、質問し、努力して対応する。
対応できなくなったらその時はもう引退する。
ただそれだけ。
その日まで自分は悪あがきしてでも、自分の人生を自分の手中に収めているそういう楽しい場所にいたいもの。
確かにコロナですが
コロナウイルスの広がりで世の中は大変な状況。
医療現場で最前線で働いていただいてる方々には本当に頭が下がります。
どんな場所でも、いつの時代もやっぱり現場で実際に動く人が一番大変で、現場の答えがいつも正しいんだよ。現場に行かないで机上でいくらシュミレーションしても、その通りに行くことはない。
通常の業務で、事故とか急患とかで緊急を要する患者さんプラス現在の状況なんだから、自粛して出歩かないで自分が少しでもかからないように対策しないと、業務はどんどん足し算されてゆく。現場の方々にもご家族がいらっしゃって、毎日職場に向かうのもうちに帰るのも大変なストレスと戦ってることなんだろうと想像するけれど、自分が想像するきっと何倍も大変なんだろう。
だから、本当に不要不急でなければ家にいることが、自分の身も、家族の身も、最前線で働く方々の家族もみんな守ることなんだろうな。
家にいることとか、人に出会わない場所にでかけることでストレスの回避も、普段できなかったこともできるんじゃないかと考える。
自然のなかに身を置くこともそうだろうし、すっごい手間暇をかけた料理をしてみたり、読めなかった長編小説にトライしてみたりとか・・
それが今一番必要な時間の使い方じゃないのかな。
そういう時間を過ごすことで、新たな発見があるかもしれないのにね。
自分は普段から大自然の中が職場で、人ともほとんど接しないので普段通り、今の時期は休む暇なく激務が続いています。
今も、そしてこれからの終息後もいつも通りの食の供給をするために今できることをきっちりと仕事します。
悩めるということは・・
人を動かすことのできる人は、他人の気持ちになれる人である。
その代わり、他人の気持ちになれる人というのは自分が悩む。
自分が悩んだことのない人は、まず人を動かすことは出来ない。
とは本田宗一郎氏の言葉。
悩むことがストレスだとか、悩むストレスから逃げてもそれは
頭の引き出しが増えるわけじゃない。
悩みは、何か「今までにないこと」に直面した時に生じることであって、
今まで通りの延長線上には悩みは存在しない。
悩めるのは悩める対象があり、それは自分が成長するきっかけみたいなものなのに、
いろんなことから逃げる「逃げぐせ」がつくと、それを全部他人に押し付ける。
出来るか出来ないかは他人が決めることじゃなくて、それは全部
「自分が出来ない」と判断を下した結果。
それは、自分が悩みたくないから。
そんな姿勢を次世代に見せても「あー自分はこうなりたい」とは思うわけがない。
自分が接してきた先輩はいつも
「お前らが分からんのは俺の言い方が悪かった」
「俺には返さんでもえーから、お前がまた次に若い奴に同じことをしてやれ」
という器のでかい人に逢ってきた。
そういう自分が「こうなりたい」という先輩は、いくつになっても尊敬できる「ひとの資質」と「ぶっとい芯」が揺るがない。
そういう先輩はいつも次世代のために悩んでくれた。
そしてそこには最初から、見返りはなかったもの。
自分も「悩める」のは幸せだと思う。
なりたくない人間からの指図
いつの時代もそうだが、人が集まる場所、人が集まる地域、人が集まる人とその逆がある。
結局のところは、「人」がそれを形作る素因子だ。
人が集まる人がいる場所が、たくさんあるのが人が集まる地域になるし、人が集まりたくない人がいくらいてもそれは人が集まる場所にも、地域にも発展しない。
では、人の集まる人とは?
単純な話それは「その人のもつ魅力」でしかない。
長く生きているから、若いから、男だから、女だから・・そんなことは全く関係ない。
年配者でも考え方が錆びない人はたくさんいるし、いつまでも変わらないモノを伝えられる人は貴重な存在だ。
人の言いたくないことを先頭を切って言えるという人もなかなかいるもんでもない。が、そいうことを言う人がいないと何も変わらない。
リーバイスにジーンズは押し付けられて買ってるんわけじゃなくて、「いいから」買うわけ。次の世代が「それが必要だから」買うわけで、必要でないものは自然淘汰されてゆく。
時代遅れのファッションを押し作られるのと同様に、
「俺たちがこの服着てたから、お前もこの服着ろ!」と言われてるのと同様に
「俺たちがこうやってきたから、お前たちもこうしろ!」はもうその時点で選ばれていないんだよね。
本当にいいことは、次世代がすでにそれを察知して言われなくても勝手に引き継いでゆくし、そうゆうモノや考え方のある人には常に「次世代」が学びに集まる。
ファッションと同じでその時代で新たに生まれるものに対しては、流行だけのその場しのぎのその時点でしか通用しないモノは「ただの流行遅れ」だから
「そんなダサい服は着たくないですよ」って言うのはあたり前で、それは着たい人が来てればいい話。
一方で、古くなればなるほど「ビンテージ」感が増して行くモノに関しては、本質的な部分は全く色あせることなく、その本質は次世代が引く継ぐ。
むしろそれは、「古いかっこよさ」の価値が増すもの。
どんな業界でも同じでね、変わらないモノと変えてゆくべきモノをしっかり線引きして、自分がどちらに重きを置いて行くのかを誤るとただの流行に乗っかっただけの人生になる。
流行はあくまでも流行でそれは一時だけの話。
継続することには意味がある。
だだ継続の時間軸の概念も、それが10年なのか、50年なのか、1000年なのかで
取るべき行動も、学ぶべき人も異なる。
それは人それぞれ異なってるのが当たり前なんだけどね・・