小さな芽を見逃さないこと

寄らば大樹の陰ということわざがあるが、まああんまりいい意味で使われる事が無い。

植物も同様、陰で育つとひょりょひょりょで弱弱しく、根張りも少なく育つ。

こういう流れに乗っかているのは楽だろうけど、俯瞰的に考察するとそれは凄く怖いことだと気づく・・。

「誰かが考えたこと」「誰かが言ったこと」「この人が反対するからやらないこと」

「みんながやっているから」「昔からそうだから」という流れの船になんとなしに乗っているということは、自分の人生を歩んでるんじゃなくて、その考えをその時点で発言した人の人生観で生きているという事。

自分の感性で、思考で、創意工夫して歩いていると、まあ上手く行かないことの方が多いけど、それが上手く行かない理由も、上手く行く理由も蓄積されてゆく。

上手く行く「結果」よりも、上手く行くまでの「過程」が蓄積されてゆくと、その過程には共通した「芽」があることに気付いてくる。

「芽」がでるには必ず「種」がある。種がないものはいくら水をやっても肥料をやっても永遠に「芽」がでることはない。

物事に変化が起こるにも、時代が大きく変化するにも、それがいきなり起こることはなくて、必ず最初に「種」があり「芽」が小さく芽吹いているが、大きな潮流に乗っていることが自分の実力だと思っていると、それは潮流を作る「虎の威を借る狐」の「虎」の実力なので、その潮流が止まった時には、意識は「虎」で現実の自分は「狐」だと認識する事になる。

昔から「自分の仕事は2割増し」と言われるように、自己評価が一番難しいが、正当な自己評価をするためには、限られた歴史観や社会でお山の大将にならないように、常に「世相」に応じた、また何も行動しないと劣化して行く自分を冷静に俯瞰できる価値基準を持っておかないと危険だなと感じる。

そのためにはいつも自分が学べる人といないと、自分のマイナス要因や、劣等感を感じる「危機感」を持つ「アンテナ」がなくなってしまう。

世の中は必ず「次の世代」が作っていくもの。

それは「新しい小さな芽」がやがて大きく育って、それがいつかは朽ち果てて、またそこから新たな「芽」が出て・・を繰り返すのと同じこと。

寿命と老化はどんなに能力があろうと、大企業の経営者であろうと不老不死はあり得ない。そして、どれだけ強大な権力をもった国家でさえ永遠はあり得ない。それは歴史を学べば分かる。

限られた世界観しか持ちえないと衰退して行く事しか見えないが、大きな社会での現実を見つめると、そこには沢山新たな「芽」が勢いよく芽吹いてることに気付く。

そしてまた大きな変化を起こして行く。

大木もいつまでも大木であり続けるわけじゃないので、いつまでも寄らば大樹の陰の大樹はいつかなくなる。大樹の陰を探し続けるよりも、新たな「芽」になる方が楽しいし、新たな「芽」を摘むことよりも、育つほうが何十倍も楽しい。

「本当の」先輩から学ぶ

反面教師という言葉があるが、当然のことながら教師があっての反面教師である。

ちゃんと未来を導いてくれるように、目の前の安っぽい答えや金を与えるような人間としかかかわってこないと、後々泣くことになるけれど、それはそこに来て気付いてももう取り返せない。答えやお金を出す方が、成長を待つよりも何十倍も楽だから。それは教える側に「本気度」と「愛情」がない表れだとそういう人としか携わってこないとなかなか気付けない。

大学生の時に「お前な、これから生きていくと必ず楽な道としんどい道に分かれる分岐点に当たるぞ。その時に、絶対に楽な道は選ぶなよ。1回選んだら、もうずっと楽な道しか選べなくなるからな。そうするとお前はそれが習慣になって、楽な道を選ぶ人になるぞ」と言ってくれた監督。

「若いときに流さない汗は、年をとった時に流す涙に変わる」という言葉を若い人に伝えられる人は、自分が若い時に汗をかいた人。そしてその逆を見てきた人だから出てくる言葉だけど、若い時になかなかその言葉の意味に気付ける人は少ないし、それはそれを取り巻く環境が大きいなと感じる。

仮に、周りの環境が「勝つこと」を当たり前としている環境だとすると、勝つためにはどうするのか?という思考と行動が当たり前になるし、「負けてもあたり前」の環境だと、そもそもしんどいから、暑いから、休みたいから・・それは全部あたり前の環境になる。それは身の周りの環境が(特に若い時に過ごす環境が)「楽しむ」「勝つ」「次世代に負の要因を持ち越さない」とかいう「正」の要因を作り出そうとする先輩方がいる環境だと、その環境が受け継がれてゆくこともまた「当たり前」になるが、「負」の環境しか知らないで育つとまた「負」の環境を受け継いで行くのが当たり前になる。

感性のしっかりした、若いうちにそういう事をちゃんと学んだ環境で育った後輩が見ているのは「結果」じゃなくて「過程」であり、それは「姿勢」を見ている。

受け継がれてゆくのは結局「姿勢」であり「イズム」でしかないので、それを示す先輩がいない社会は次世代が育たないとは至極当然の話。

年を取ってからが、本当に「何を考えて」「何をやってきたか」が証明されるんだなと素晴らしい人生の先輩方と接していると感じる。

自分がお手本にしたい先輩方の共通項は決まっている

過去を語らず未来を語る。

年下の人間が学びに来る。相談に来る。

行動的。

調和はするけど流されない。

自分の意見はちゃんと持っているし、ちゃんと発言できる。

次世代の人間に任せることは任せて、任せたことは口出ししない。

相談された時だけアドバイスする。

若い時にいろんなことを経験して、その数だけ「ちゃんと」失敗している。

と、結局「自分の人生を楽しんでいる」こと。

多少大きくても、太くても、色を変えても、金太郎飴は金太郎飴。金太郎飴から脱却する方法をまず知る。知っていても行動しないと同じ。行動してもやり切らないと同じ。

答えのない未来に進むには、今までの答えの延長線上じゃなくて、その裏側にある「答えにならなった」ことを知っている先輩方から学ぶ時代になって行くだろうね。

 

「間」と「嗅覚」

仕事が終わって、自分が、唯一ゆっくり何も考えないでいる時間を持てるのは「風呂」で落語や昔のPAPEPOテレビを聞いているとき。

さすがにプロだなと思うことは、何度聞いても面白いこと。古典落語なんかは、話す内容は全く同じなのにも関わらず、その人によって落語は全く変わる。それはつまり稽古や反復によって「じぶんのもの」にしているから。

これは同様に、吉本新喜劇や漫才やコントでも言えることだし、スポーツでも、農業でも料理の世界でも全く同じで、その世界の人たちと話をしているといつも「そうそう」となる。

じゃあ、やってることが同じなのに、なぜプロは面白くてアマチュアは面白くないか?

あるいは、材料が同じ、使っているものが同じなのにもかかわらず、結果が全く異なるのは何故か?

結局のところそれは「間」の取り方が違うから。

何でも「与えられて」育ってくると、そこに「過程」がついてこないので目の前の「答え」が変化した途端the endとなる。

一方で「自分で考えて」「反復し」「工夫」することによっていわゆる「身につけるまで」やった人間は、「いつも」と「いつもと違う」という変化を感じるようになる。

いわば「嗅覚」が育ってくる。最初から「鼻のきく」人間なんているわけがないが、訓練しないと一生きかない。だけど訓練されると徐々に鼻がきくようになってくるもの。

農業でいうと、データや数字は決まった「値」でしかないのでそれは動かないもの。結局のところ、健康診断にいっても最初から無駄なお金と時間を使う人と同じで、それを基にして「どのタイミング」でとか、「場合によっては」という、「用法」「用量」や、アドバイスをもらっても結局「行動する気」を持たないと何も変わらない。

結果の差は、材料よりもそのタイミングを嗅ぎ分けることができるのか否かの方が結果に直結する。

つまりそれは「教育」や「人財育成」にも通ずる「間」と同じ。

いくらいいことを言っても聞く側に聞く姿勢がないものは馬耳東風。

逆に、聞かれてもいないことや、成長段階にある人間なのにもかかわらず、なんでも手を貸す、答えを与えるという安易な人間は、結局のところ相手の成長を望んでるんじゃなくて、「見て苦しい自分を解放したい」だけの話なんだと感じる。

与えることで自分は楽になるけれど、与えられた側はのど元過ぎれば熱さ忘れるという習慣が身につくにはすごくいい。だけどそれはその場をやり過ごしているだけで、成長につながってはいない。

「間」というものは、その取り方で笑いにも変わるし、不発にも終わるだろうし、手を貸すにしても「間」次第で、人を生かすも殺すも変わってしまう。

人は「考える葦である」という言葉通り「考える」生き物で、考えるということは「感じる」ことができるから。だから、感じない人は考えないし、考えないと変わらない。

考えるには必ず「時間」という「間」が存在するし、人と人にも間があるから「人間」なんだし、親しき仲にも礼儀ありというように、いくら親しい「間柄」にも間は必要。

考える「時間」をもって成長してきた人はその時間の意味する事や、重要性を知っているので安易に「答え」を与えないし、そうやって成長してくると安易に与えられる「答え」の怖さを知っている。

そこには「過程」が存在しないから。

「過程」が存在しないと風向きを読む「嗅覚」が育たないから。

過程や手段がいくら整っていても、「間」のとりかたを学んでこないと、事を起こすタイミングや距離感が計れなくなる。それは「決断力」に直結してくる結果に変わる。

「間」が抜けているから「マヌケ」なんだと「間」の大切さを野村克也氏もおっしゃっていたように、「間」がぬけていることに気付かずに何事にも距離感が近いと、近接しているもの(時間的にも空間的にも)しか見えないので、判断材料も全てが近接しているものでしかなくなる。するとそういうことは長続きしない。

物事の全体像が見るためには、ちゃんと「間」をとって全体像を眺めた上で行動をする必要がある。サッカーでいうところの、得点につながっているのには全体像をつかんで行動している人だけが知っている、得点させるために自分を犠牲にして動いている人、パスを通すためにおとりになって引き付けている人などがいるということが見えてくる。そして全体像が見えてくると今「自分が」どう動けばよいのかという「臭覚」も同時に育ってくるね。

答えのない場所でいくら答えを探しても・・

農業を始めて20年以上がたつが、年々産業としてのスピード感が増してくるのと、小さな世界観や歴史観で産業を捉えていてももう限界点を超えてきたなと感じる。

そもそも(農業だけに限らず)が変化してしまうと、あるいはそもそもが最初から間違った方向に進んでいるのに気づかないでいると、それはどこまで進んでもそれは永遠にゴールにつくことはあり得ない。

間違った答えしか持たない中でいくら議論をしても、考えを巡らせても、全て浪費と徒労に終わる。ずっと続けてきたことの延長線上でミスが起こり続けているということ、或いは何かに修正してもらわないと成り立たなくなっている事などは、そもそもそのシステムは最初から崩壊している上に乗っかているだけのこと。それが時代の変化で露呈して行くだけの話。こつこつと基礎から築いた沈まない基礎の上に立つ「まっすぐの柱」に支えられた建物はどこまで行こうとその重さに耐え得るが、沈む基礎や足元から曲がった柱の上の建物は、上物が大きくなってくればそれに耐えきれずいつかは崩壊してしまうのと同じこと。だからそもそもに気付かないと、どれだけやろうとも毎回ミスをする場所は同じ。それ以上前には進まない。

自分は大学時代にアメリカンフットボールをやっていたが、わがチームはほぼ万年最下位を争うヘボチームだった。当たり前の話だが、万年最下位ということは「考え方」「行動」「メンタル」「フィジカル」全てにおいて最下位だったから。

つまり、朝から晩までいくら練習しようと、首や肩や膝を痛めようと、ただ痛いだけ、ただしんどいだけの事に時間を使っていたので「根性」と「体力」はつくけれどまったく「勝利する」という方向には向かっていなかったし、アホだったからそれを俯瞰的に見て、俯瞰的に考えるということができなかった。つまり、いくら考えても議論しても、答えを待たない環境下では答えなど絶対に出ない。

そこにオールジャパンのコーチが来ていただくことになると、そこからすべてが変わった。それはまるで、野村克也氏が携わったチーム、自由契約になった選手を復活させた時と全く同じだった。

答えは簡単で、そもそもの「方向性」と「考え方」「取り組み方」が間違っているということに「気づく」という事から始まったから。

まあどんな組織にもよくあることだが、変わらない組織や人はその「気づく」ということがないのでずっと変わらない。だから負け続ける。

「勝つ」組織は、まず「気づく」し、「勝ち続ける」組織は「気づき続ける」ので、変化し続けるから勝ち続けることができるということを学ぶ。

まず、基礎と基本が出来ていないことから始まった。一番大切な「走り方」や「姿勢」が全くできていなかったので、タックルされればすぐにこけていた。

コーチは「お前らが今のままの走り方で走っても、そのままタックルしても今のままやで。時間には限りがある。大学生活は4年間しかない。一回今のやり方を捨ててやり直すってことは、お前らからしたら「目の前は」マイナスやって思うやろうけど、それが一番勝つための近道になる。お前らが本気で勝ちたいんやったらやり直したらええし、今のままで負け続けたいんやったら今のままでええねん。決めるのはお前らや。」と。

当然勝ちたいので「自分たちで」やると決めて、基礎から全部やり直した。すると本当に日々日々強くなっていった。タックルされてもこけない。タックルは決まる。戦略はハマる。当然結果がついてくると、その結果がどういう「過程」で導き出されているかが「理解」できるので自分たちで考えるようになる。

結局のところ、そもそもの「基礎」「方向性」が間違っていることに「気づかない」とどれだけ時間や労力を使っても結果は出ないし、そこがちゃんと出来ていれば短期間でも明確に結果が出るということを学んだ。

これは仕事においても全く同じことだが、自営業者には「コーチ」はいない。自分がコーチであり監督だから。

組織や集団を動かすには、トップになる人間が「そもそも」を理解していないと組織全体が間違った方向に動くのは至極当然のこと。

トップの最大の役割は、答えを持っていることが正解ではなくて、いつも目的に対して正しい方向性に進んでいるのか否かを判断できる能力と、それに気づいたときに修正したり、時にはそこまでの事を捨て去ってでも、新たなことに挑戦するという「決断」ができるということだと思う。

それを躊躇したり、惰性に流されたりしているようでは「有限な時間」の範囲で結果は出ない。つまり、負ける組織だし、一度そうなると負け続ける組織になる。

なぜか?

負け続けることに「慣れてしまう」から。そしてそういう環境に慣れてしまうとそれが「習慣」になってしまうから。そしてそうなると「類は友を呼ぶ」のでその習慣を持つ環境が出来てしまう。もうそこには「文句」「傷のなめ合い」「責任転嫁」しか残らなくなる。そんな場所にもう修正する答えもモチベーションもない。

もう終わりの組織や思考から抜け出して、かつ、結果にまで結びつけるという経験ができる人は少ないと思う。だけど、こういう「損得のない」経験を若いうちにしたか、してこなかったかは、大きいなと感じる。

ミスをし続ける、負け続けるということは、もうその延長線上に応えは存在しない。だからどこの時点からかやり直さない限りまた負ける。

でもそれをやり直せるだけの「メンタル」「フィジカル」「資金力」そしてそれを受け入れる「意識改革」の時間は、過ぎたものはもう取り返せないし、有限の時間の中ではもう間に合わないこともある。

若いうちに「答えのない場所でこだわっていても無駄」だということに気付かせてもらえた事は、ずっと役に立っている。

そしてこういう人に出会えたことは自分はラッキーだし、その環境を作っていただいた方々にも今もずっと感謝している。

壬寅年(みずのえとらどし)

2022年は十干の壬(みずのえ)と十二支の寅の壬寅年にあたるのだそう。

「壬」ははらむ、生まれる、厳冬、沈滞を、「寅」は動く、芽吹く、新しく始めた段階といった意味があるらしい。

合わせると、厳しい冬を乗り越えて、新しく立ち上がり動き出すということの意味があるのかなと考える。

コロナ渦で停滞していた経済や楽しみが元通りに動き出して、壬寅年にふさわしい年になってもらいたいもの。一方で、動き出す、芽吹くためには、仕込みや種まきと言った前段があっての話。色々と不景気だ、大変だと言っている一方で芽吹くチャンスのために準備していたのか、文句ばっかり言って周りに流されていたのかの差は、「静」ではなくて「動」の段階に入った時に試される。

静から動にギアがチェンジされた瞬間を見極められるかで最初の感性が試されるし、感性があっても準備していなかったものはついていけないし、持続力がないとすぐにおいて行かれるが、持久力も一朝一夕だはつかない力。

「花の咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」という言葉があるように、何かのせいにしている間に、文句を言っている間に、誰も行動を起こさない間に、準備している人は芽吹く時期に一気に芽吹くけれど、なんでも表面ばかり追っかけてその根拠を探らないでいる環境で育っていると、芽吹いてから慌てるが、そもそも種まきしていないものはもう追いつかない。

今年は農業の世界も大きく変化するいい年になりそうだ。しかもそれは、年々、自分の知っている僅かな人間関係や、歴史観で判断をしても、行動をしても全く意味がなく、世界基準で思考を巡らせていないと対応できないくらいの変化になってきている。

長い長い目標設定、広い視野と、俯瞰的な思考、教養や、無知の知など、自分の生きてきた身の周りの事や、歴史、思考がすべてではないんだという、自分には知らないということがあるということを自覚している人間が、「いつも当たり前」というなんとなく真ん中にいるようになってくるんだろうなと感じる。

ま、当たり前にやっている人はいつの時代も言うこと同じ。

「むちゃくちゃいいことも、むちゃくちゃ悪いこともないのが一番いいけど、それが一番難しい。それはいろんなものに左右されていないという証拠やからな」って言うてるわね。

農業という仕事「も」シーズンオフを本当にオフにして過ごすわけがない

よく言われるのが「冬って何してるんですか?」という問いかけです。

一般的にそう見られてるのが「農業」という仕事なんだろうと思います。自分は学生時代に、剣道、野球、アメリカンフットボールとスポーツを経験してきたが、試合で勝つ人間は「練習している」からだし、勝ち続ける人間ほど「練習し続けている」し、試合以外の時間を「練習に費やしている時間が長い」。

試合はあくまで練習の成果を「試すだけ」の場であって、オリンピックの100m走なんて1回走るのはたった10秒で、予選から決勝まで進む人でさえ4回?5回?ほどしか走らないので、試合時間なんて実質1分もない。その1分のために365日×4年間、それを目標に生きてくる人はそこに来るまでの年数分、来る日も来る日も、暑い日も、寒い日も、けがをした時も・・淡々と練習して結果が目に見えているだけ。

それは、野球でもアメリカンフットボールでも同じで、試合時間なんて所詮2時間前後。そもそも試合で全力で走れないようじゃ試合に出ちゃダメなわけで、(レベルの高い集団ほどそもそもスターターになれないw)練習不足を本番でいきなりスーパースターになるのは無理な話。試合の結果は、どれだけ練習で汗をかいたかだし、いつまでもスターターでポジションを守り続けられるのは、それだけ人よりも汗をかき続けたから。そんなことはあたり前の話。

当然のことながら、ルールの変更や戦略の変更など、日進月歩で変化するルールや環境にアジャストできなくなれば、その時点でそういう競争社会では不必要になる。ただそれだけなので、自分がそこに存在したければ練習するだけだし、しなければ要らなくなる。そう、そういう世界ではいくらでも自分の代替は存在するということを知る。

そういうレベルの環境に身を置くと、どれだけのことを「普段から」当たり前にやり続けないと取り残されるのかを学ぶことができたし、それが当たり前の思考になる。

では「農業」という職業では実際にどうなのか?

農業の世界でも今、様々な変化が起こっているがそれはもう自分が農業を始めた20年以上前から想定内の話。その変化に対応すべく普段からコツコツと練習しておかないと、ルールの変更や、生きのいい若手についていけないのはあたり前。だって、頭も体も高齢化しているから。そのためには自分と一緒に高齢化して行く人たちにばかり囲まれていても、自分が高齢化してどんどん取り残されてゆくことに気付かなくなるので、常にイキのいい若い世代と接して、自分が年を取ってるんだという認識をしておく必要がある。

年を取ることは生物学上当たり前の事なのでそれは避けられないが、自分の現状認識を常に行っていると「対応」の使用があるし、出遅れる可能性が低くなる。

だから「自分と違う」農法や職業、地域、年代層と接して自分のポジショニングを、毎年どの位置に置けばスターターとして生き残ることができるのかを考える必要がある。

環境が変化して行く中で生き残るのに必要なのは「イノベーション」だが、同じ発想、同じ地域、同じ年代、同じ職業といくら時間を過ごしても、イノベーションは起こりようがない。イノベーションが起きるのは、「自分と違う見方、知識、発想」が融合しないと起きないから。そして世の中は、自分が知っている知らないに関わらず、出来る出来ないに関わらず、イノベーションが起き続けていることを知っているから。そして、グローバル化という言葉の示すことが、今まで強みだと認識していたことがある日突然弱みに変わってしまう事を知っているから。だから常に「教養」という「自分とは違うものの考え方や、宗教観、歴史観などがあるんだ」という認識を持っていないとそれを「今起こった変化だと誤認」してしまうから。

そういう「大枠のことをまず踏まえた後」自分の経営の見直しと反省と来季の「具体的」な行動指針を作る時間にする。

そもそも自社の(農園)のゴール設定が明確でないと、「過程」が明確にならない。結果には「期限」と「数字」が伴わないと絶対に「出来たらやる」で終わってしまうので、そういう思考だとまず出来ない。

大枠のゴール設定から引退を35年後に設定し、30年後、20年後、10年後、5年後・・と区切り、その中でシーズン計画、半期計画、月間計画、週間計画、デイスケジュールと落とし込んで行く。シーズンが始まるまでに、週間計画までは作成するのなんてどんな職業でもそもそも当たり前だと思っているので、2月までにそれを全部終わらせる。

次に、実際に現場レベルでの仕事のスケジューリングに入る。もちろん、そのためには今までの様な大枠のゴール設定がなされていないとここから先の計画は立てられない。

土作りとと一言に言っても、そもそも土作りには終わりがあるし、終わりがあるのは目標が明確だから。売り上げに対して、どの作物を、どのくらいの面積で、どこに販売し、販売単価はいくらで、いくらのコストを、何年かけて投資するということぐらいは簡単に出来る計画。そして、土作りによって売り上げや収穫量が面積当たりでも全く違う。それは何故かというと、土の胃袋によって抱える事のできる窒素成分が3倍にも4倍にもなる。だからそもそも収穫量が同じ畑でも違うし、胃袋の小さなところに土作りをしないで「隣がこれだけとれてるから」と安易に窒素だけを投入しても、そこに来るまでに土作りという「胃袋を大きくすること」と「その胃袋に見合った肥料のバランスを科学的に整える」ということをしてこないと、虫や病気の餌食になるためにお金を使って餌をバラ播いているのと同じ事になる。それが理解出来れば同じ面積当たりで売り上げも違うし、それ以上に利益ももっと違うということが理解できる。なぜか?

固定費(土地代、トラクター代、ビニールハウス代など)は同じだから。

そうならないために、うちの場合は40点以上の土の健康診断を行って、全ての数字の裏付けをし、それぞれ異なった処方箋を準備することで、収穫量の予想とそれに伴う売上高、コストの計算、利益予想が出る。そこで初めて、どんな機械、資材に投資をすることでステップアップする事が出来るのか、ローンを組んでも返済できるのか、どれぐらいの人件費を使えるのか、それによって新たな採用枠はどれぐらい広げなければならないのかが出てくる。

これは机上の話で、これが終わればアスパラ選別機の全ての錆びの研磨、清掃、消毒、修理から始まって、冷蔵庫の清掃、消毒、納屋の整理整頓、道具庫の整理整頓、機械類の整備、オイル交換、塗装。全ての道具類の整備、鋏や鍬、鎌の研磨を終わらせる。その際にも細かくすべてにおいてラミネートを張り付けて「今日来た人でもどこに何があるか」や「危険個所」や「注意事項」を明示する。

それを2月中下旬までにすべて終えた後、スタッフミーティングでその年の目標と行動計画を一つずつ確認し、再度修正点や改善点を見直してからシーズンインが始まる。

まあそれとは別に、農業関係の資料や本を読むのとは別に、読まなければならない本もあるし、読んでみたかった本も寝ないで読まないと時間が足りない。自分の仕事に関係する言葉ばかりだと、言葉が偏ってしまう。言葉の偏りは、発想や行動や表現の偏りに結び付くのでそれだけは自助努力で出来るだけ回避したいもの。

と大体こんな事をやっているので「冬なにしてるんですか?」と逆に聞きたいW

が、一般企業や、学生時代でも強豪チーム、社会人レベルでプレー経験している人だとそもそもこんなレベルは「当たり前」のことであって、ここから先が「努力」とか本当に意味での「対応力」だと思うけどね。

最初は「あえて」非効率をとるわけ

 

最近は農業の世界でも「効率化」とよく耳にするが、同じ「効率化」でも、自分で考えて全部やってみた結果、それが無駄なことだと分かったり、時と場合によって、今やれば更に精度が上がるが、今は省いても後でやれば帳尻が合うなどと判断して順番を入れ替えられるようになっての「効率化」したものと、最初から条件や答えを与えられたいわゆる答えを「与えられた」「効率化」ではその時は同じでも後々大きく結果に差がついてくる。

今だけ簡単に効率化する事はそんなに難しくない。今、上手く行く方法だけを採用すればいいだけで、それはそれほど難しいことじゃない。だけどそれは続かない。

今上手くいくことを探してもそれは「今だけ」上手く行くことであって、時代が変わり、志向が変わり、国の内情が変わるとそれは全部変わってしまうが、その時に対応する術を待たない。

一方で、最初から自分で考えて物事を行うとまずほとんどの事が壁にぶつかる。やってはやり直しやってはやり直しの繰り返しだが、自分で考えて行動していると「失敗の分岐点」に気付きだす。

最初は目標に向かわない失敗のベクトル方向に、労力をかけることに時間を費やす。殆ど同じレベルを行ったり来たりしているが、それを繰り返していると、やがて間違っている方向に向かっている事に気付きだす。そのうち、ミスの方向に大きく踏み出さなくてもそれはミスをするという事に気付くことがどんどん早くなってくる。つまり、目標と違う方向に向かっているという「判断能力」が向上してくる。

若いうちは体力があるから、集中力が持続するので、トライ&エラーの反復を幾度も幾度も繰り返すことができるが、体力が低下してくると集中力が持続しなくなるので、若いうちに何度も失敗しそれを修正するということを習慣づけないと、年とともにそのルーティーン能力は必ず低下してくる。

上手くいかないのは、最初から「上手く行く」方法を安易に手に入れてしまったからだし、上手く行くのは、最初に「上手く行かない方法探し」に着手したからで、上手く行かなくても、「上手く行かない方向に行かないという判断能力」を身につければ、徐々に安定の範囲に入ってくる。

経営は、大きかろうが、小さかろうが、若かろうが、年を取っていようが、「失敗の原因」は変わらない。出来るだけ小さいうちに、若いうちにたくさんの失敗をしておいた方が、後々判断能力が向上して「ミス」が少なくなる。

スポーツも経営も、「ミスをしたら負け」のゲームなので、上手く行くこと>ミスであれば規模が小さくても安定し続けるし、少しづつ大きくしても大きくミスする可能性は少なくなる。

どこをゴール設定にするかを明確に持っていると、どこまでをしっかりと失敗し、判断材料を集めるための投資の期間、どこからがその材料を使いながらの安定期に入っての回収の期間と、計画的に行動できるもの。

もちろん、今の時代は、それ以上に自分の判断能力を上回る「世の中の動き」が加わってくるので、なおのこと、ミスをしてリカバリーする時間を大きく費やしていては取り返しがつかない時代になっている。

非効率を最初に選択して「一見すると」回り道や、非効率に見えたこと、「そんなことまでしなくても・」が今から回収されるような時代なんじゃないかと思う。