「間」と「嗅覚」

仕事が終わって、自分が、唯一ゆっくり何も考えないでいる時間を持てるのは「風呂」で落語や昔のPAPEPOテレビを聞いているとき。

さすがにプロだなと思うことは、何度聞いても面白いこと。古典落語なんかは、話す内容は全く同じなのにも関わらず、その人によって落語は全く変わる。それはつまり稽古や反復によって「じぶんのもの」にしているから。

これは同様に、吉本新喜劇や漫才やコントでも言えることだし、スポーツでも、農業でも料理の世界でも全く同じで、その世界の人たちと話をしているといつも「そうそう」となる。

じゃあ、やってることが同じなのに、なぜプロは面白くてアマチュアは面白くないか?

あるいは、材料が同じ、使っているものが同じなのにもかかわらず、結果が全く異なるのは何故か?

結局のところそれは「間」の取り方が違うから。

何でも「与えられて」育ってくると、そこに「過程」がついてこないので目の前の「答え」が変化した途端the endとなる。

一方で「自分で考えて」「反復し」「工夫」することによっていわゆる「身につけるまで」やった人間は、「いつも」と「いつもと違う」という変化を感じるようになる。

いわば「嗅覚」が育ってくる。最初から「鼻のきく」人間なんているわけがないが、訓練しないと一生きかない。だけど訓練されると徐々に鼻がきくようになってくるもの。

農業でいうと、データや数字は決まった「値」でしかないのでそれは動かないもの。結局のところ、健康診断にいっても最初から無駄なお金と時間を使う人と同じで、それを基にして「どのタイミング」でとか、「場合によっては」という、「用法」「用量」や、アドバイスをもらっても結局「行動する気」を持たないと何も変わらない。

結果の差は、材料よりもそのタイミングを嗅ぎ分けることができるのか否かの方が結果に直結する。

つまりそれは「教育」や「人財育成」にも通ずる「間」と同じ。

いくらいいことを言っても聞く側に聞く姿勢がないものは馬耳東風。

逆に、聞かれてもいないことや、成長段階にある人間なのにもかかわらず、なんでも手を貸す、答えを与えるという安易な人間は、結局のところ相手の成長を望んでるんじゃなくて、「見て苦しい自分を解放したい」だけの話なんだと感じる。

与えることで自分は楽になるけれど、与えられた側はのど元過ぎれば熱さ忘れるという習慣が身につくにはすごくいい。だけどそれはその場をやり過ごしているだけで、成長につながってはいない。

「間」というものは、その取り方で笑いにも変わるし、不発にも終わるだろうし、手を貸すにしても「間」次第で、人を生かすも殺すも変わってしまう。

人は「考える葦である」という言葉通り「考える」生き物で、考えるということは「感じる」ことができるから。だから、感じない人は考えないし、考えないと変わらない。

考えるには必ず「時間」という「間」が存在するし、人と人にも間があるから「人間」なんだし、親しき仲にも礼儀ありというように、いくら親しい「間柄」にも間は必要。

考える「時間」をもって成長してきた人はその時間の意味する事や、重要性を知っているので安易に「答え」を与えないし、そうやって成長してくると安易に与えられる「答え」の怖さを知っている。

そこには「過程」が存在しないから。

「過程」が存在しないと風向きを読む「嗅覚」が育たないから。

過程や手段がいくら整っていても、「間」のとりかたを学んでこないと、事を起こすタイミングや距離感が計れなくなる。それは「決断力」に直結してくる結果に変わる。

「間」が抜けているから「マヌケ」なんだと「間」の大切さを野村克也氏もおっしゃっていたように、「間」がぬけていることに気付かずに何事にも距離感が近いと、近接しているもの(時間的にも空間的にも)しか見えないので、判断材料も全てが近接しているものでしかなくなる。するとそういうことは長続きしない。

物事の全体像が見るためには、ちゃんと「間」をとって全体像を眺めた上で行動をする必要がある。サッカーでいうところの、得点につながっているのには全体像をつかんで行動している人だけが知っている、得点させるために自分を犠牲にして動いている人、パスを通すためにおとりになって引き付けている人などがいるということが見えてくる。そして全体像が見えてくると今「自分が」どう動けばよいのかという「臭覚」も同時に育ってくるね。