真打ち
とある落語の師匠がラジオでこんなことを言っていた。
「私はね、いい加減だから落語会の本番当日まで演目考えないで会場に行くんですよ」って。
それは何故かって・・
「前座で出てくる新人さんはね、演目が豊富にできるわけじゃあないでしょ。
私がね、今日この演目やるからって先に言っちゃったら若い子どうします?
他の演目なんてそもそもできやしないのに。
だから新人さんから順番にね演目やってもらうんですよ。
その間ね、会場の雰囲気や今日のお客さんの笑いどころってのを聞いててね
みんながやらなった演目をやるの。
それが出来なかったら何のための真打なの?」
こういうのってどんな仕事の世界でも同じでね
「昔からこの方法でやってきたからお前もこの方法でやれ!」ってね
そもそも頭の中に方法論の引き出しのない証拠。
「経験値」っていうものはそうじゃない。
「時代も違うんだし、若い人間のやりたいように一回やってみろ!
そんなもの、最初っから聞くなよ、子供じゃないんだから!」てね
言えるかどうかでほんとうの経験値が分かる。
本当の意味で経験を積んだ人間は、様々な方法でやって来ている「はず」だから
だいたいこの方法でやった場合はこの辺りで行き詰るな、こういう失敗をするだろうなっていうのが想像ついてるからそこまで口出ししないでいれるわけ。
だけど、途中経過だけは見ぬ振りしながらしっかりと見てやる。
失敗した時点で行き詰るから考える、或いは相談に来る。
「俺は、こうやってけどどうよ?やってみれば?」って言ってやればね
「さすがに社長ですね、すげーなやっぱり」とか
「やっぱり経験てこういうことか」ってなる。
こういうのが先輩であり、経験値だと思う。
途中であーだこーだと口はさんだり、ちょっとでも自分のやり方と違ってたらすぐに手を出すのは、修正してあげられる引き出しの少なさの現れみたいなもんでしょ。
でもね、これは大して面白くないほんとは。こんな事やってても、いつまでたっても頭の古い自分が「俺えらいでしょ」って自己満足してるだけでそんなことじゃ自分も成長しないし、次の人間の想像力を逆に心配してしまう。
本当の狙いはこんなところにないわけで。
本当の狙いや楽しみって
「あーこんなこと自分が思いつかなかった」ってことや
「なるほど、そんな方法よく考えたな」ってことを次の世代がどんどん考えたり
発見したり、創意工夫してくれて
「社長はお出かけしてもらっても用なしですから」ってなってもらわないとね。
そうしたら「自分の経験てまだまだだな」って教えてもらったり
「いやいやまだまだお前に負けてられへんぞ!」って悔しいけどひた隠しにしながらこっそりと本読んだり、みんな帰った後に一人で仕事したりね(笑)
そのためには、たくさんの失敗とそれを自分自身で理解し、修正する方法を経験値として持っていることが必要。
どんな人間でも、いきなりできる人間なんているわけでもなく、時代や社会背景によって方法論も変化するし、人の成長によってもまた方法も異なる。
待てない度量のない人間は「今と自分の頭と過去」を基準に全ての物事を判断する。
だから、人の足を引っ張ったり、自分よりできる人をねたんだり、先に行かないように
するわけでね。
失敗するってことは、つまり成長してる証。
お墓に入ってしまえば、もう失敗することは2度とない。
失敗する人間を笑ったり、成長して自分を置き去りにしていく人間の足をいくら引っ張ったところでね、そこに自分の成長なんて全くないのにね。
置いて行かれないようにするのは自分が学ぶか学ばないかであって
それは年齢に関係ない。学ばないと若くても置いて行かれるし、年をとっても学ぶ人はいつも失敗することを楽しんでいるし、経験値が上乗せされて恐ろしいスピードで成長し続ける。そしてまた、それ以上に次世代の可能性を伸ばす方向に尽力してる。
職業関係なしに、それぞれの世界の「真打ち」は度量と余裕と引出しが溢れてる。
そういうところにはいつも人が学びに集まってくる。