今までじゃない優位性

2021年も始まった。

というよりも、自分にとってはゴールに向かっている過程の1年がまた始まっただけだし、ゴールに向かう上で行動できる時間がまた1年減少したというのが本当のところだ。

毎年毎年積み上げ方式でゴールに向かっている発想ではなくて、どの時点でどこまで達成していないと本当にゴールにたどり着けるの?という発想でそもそもスタートしているので、コロナという不測の事態が起ころうと起こらまいと、目指すゴールは全く揺るがない。

変わらないゴールにたどり着くため、変わるのはゴールじゃなくて、あくまで手段だけ。

不測の事態が起こったという事実は、淡々と冷静に受け止めるしかない。それは地球上で全世界で起こっているという事実だから。これは何も自分の職業に起こっているわけでも、おらが村にだけ起こっているわけでも、自分にだけ起こっているわけでもない。

いつの時代も、どんな仕事においても、スポーツにおいても、ルールや環境で優位に立てるものは、所詮一時の話で長続きしない。いつの時代も、どんな職種でも1腺級を維持し続ける人は自己解決力を持つ人。つまり、他者依存やある限られた条件内で通用するという人ではなくて、どんな条件でも安定している「足腰の強い思考をもっている人」だ。

時代が急激に変化するターニングポイントになると、「昔の経験や知識を捨てる事が出来ない人」の方が不利に条件はスタートする。

時代が全く変わってしまうということは、求められるもの、人の価値観、人生観などすべてが変わってしまうとういう事。

従来の延長線上に未来が「あった」昭和時代では、より大きいこと、労働生産効率がいい企業、より早くより安く仕事をこなす企業が「価値」のある企業であったが、世の中の価値観が変化した今、大切にしたいものが変わってしまった。

しかし、これからどこに向かって進んでいくのかは分からないので、今後は大きくする=コスト削減する、より安く早く、給料がいい、などといういわゆる「金」で測れる価値観、言い換えれば金で測ることしかできない価値観は、全てではないだろうが薄らいで行くだろうから、そこではない価値観つまり「金では測れない価値観」に変化して行く世の中に対応して行くために、常にハンドリング可能な範囲に抑えられるかどうか?がキーポイントになるような気がする。

大きくする方が簡単だ。しかし、一度大きくしたものを小さくすることは凄く難しい。

何故か?そこには「辞める」「捨てる」という決断力と責任が発生するから。

これを行うにはすごく勇気がいるが、これを決断できるのは今まで判断を人任せにせず、常に方向性を自己判断し決断してきたか否かがそれを行えるか否かにかかわってくる。

時代が変化したターニングポイントは、力のかかるベクトルの方向性が変化したという事。目指すゴールに対して、今までと同じ「方向性」で力をかけていても設定したゴールには永遠につかない。これは、ラグビースクラムと同じで、まっすぐ押すからまっすぐ押せるわけじゃない。あの中では様々な微調整とベクトルの方向を「確認しながら押している」事実がある。

つまり、しっかりと見定めたゴールに向かうには、変化したべクトルの「方向性」を見極めて力をかける方向性を従来の方向性から変化させるしかない。力があっても「方向性の違う努力は永遠に実らない」。コツコツでも方向性があってれば時間がかかっても必ずゴールする。

何を捨てて、何を取り入れて、何を変えないで、何を変えるのか?

判断力とスピード感と実行力、そして自己解決力が必要とされる年の始まりだなと思う。今までそうやってきた企業は、2020年にきっちりと企業内、頭の中の整理整頓を終わらせたはず。つまり棚卸を終わらせて、不良債権の処理を終わらせたはず。

もうスタートしているのか?今から準備するのか?

ダイエーホークスの工藤監督は、日本一になった次の日からもう始動していた。

「優勝したのはもう昨日の事ですから」と。

大差は微差の積み重ねでしかないわね。

 

俯瞰力 2

大学生になった時に体育会アメリカンフットボール部に入部したが、一番最初にヘルメットをつけて頭で当たった時に「もう、辞めよかな?」と思ったぐらい痛かったW

自分が入部した時、大学の部は3部の一番ビリで毎年最下位争いをするのが「当たり前」の散々なチームだった。が、それが長く続ていたのでもうその状況に慣れていた。

そういう状態が続いていると必ずそういう環境で起こっている事がある。

1つ目は、その状況を不思議に感じなくなること。負け続けることが当たり前になると「負け犬」が当たり前になるので「悔しい」という感情のレベルが格段に低くなる。

2つ目は、それを「どう打開していいのか」客観的に状況を観る視点を持たないので

自分たちがおかしい事に気付かない。

3つ目に、もちろん客観視できる視点がないので、チームの短所、長所、チーム力の分析がなされないので戦略を持たない。いや、持てない。

そういう環境がもたらすのは、朝から晩まで「一生懸命やった」ことや、暑い中で「長時間練習した」ことなどの「自己満足の自己評価」するようになる。

あたり前だ。

明確な戦略を持ってゴールを設定しないと、

「自分たちが成長しているのか否かを評価できる指標がない」し

「努力の方向性が目標に向かって正しく行われているのか」確認できないし

そういう状況でいくら練習をしても

「どこをどう修正すればいいのか」が出てこない。

こんな状態でただ時間だけを浪費して練習してもモチベーションも上がらないし、もちろん上手くなるわけもなかった。

ところが・・

ある一人のコーチが自分たちを、そしてチームを一変させた。

そのコーチは自分たちとは雲泥の差でプレーしていたコーチだったのでまさに「俯瞰的」に自分たちのチームを一瞬にして分析できたのだ。

そこでプレーしていたのは同じ人間だったが、そのコーチが来て我々クソチームに教えたことはプレーが上手くなることじゃなくて

「目標をまず決めなさい」

「決めた目標に対して、数字で行動計画を立てなさい」

「行動計画が数字通りに達成しているのか否か、常に確認しなさい」

「確認したなら、次のステップに進んでいい場合は次に進みなさい」

「進めない場合は、何が原因で進めないのか?じゃあどうやったらそれが出来るように修正すればいいのか考えなさい。」

「メニューは基礎から徐々にステップアップして組んでいるから、目の前のメニューをクリアーしていかないと次のレベルに行っても、必ずクリアー出来ないレベルのミスをし続けるだけだから、ミスの原因が分からなくなる。だから次に進むな」

などというアメリカンフットボールのみならず、社会に出てからも、今自分が生業としている農業経営に対しても通用する

「戦略的思考と行動計画の立て方」をチームにもたらした。

我々は、プランに従ってグランドでは肉体的なパフォーマンスを繰り返し、グランドで肉体的パフォーマンスが終わるとミーティング頭脳で反省と修正のプランニングを繰り返し行った。毎日、毎週、毎月・・。

それによってチームはみるみる強くなった。自分が1年生の頃は3部の最下位争いが「当たり前」の環境だったものが、2部のチームに負ける事が悔しく思えるようにレベルアップしていたし、自分が4年生の時の1年生が2部に昇格し、その後2部でも優勝して1部の入れ替え戦まで出場した。つまりチームの「当たり前の基準が」まったく変わってしまった。

これは全てこのコーチがもたらした

「目標設定を明確にしなさい」

「できないのは全部自分の責任」

「下級生がやらないのは、上級生の責任や。お前らの背中に問題あるからや」

特に自分はチームを預かる主将という立場だったので

「お前がやらんかったら全員やらへんで。お前の背中がチームを決めるねんぞ」

となおさら厳しい立場だったが、弱かった自分が今あるのはこの経験とコーチのおかげでしかない。

「他人に迷惑かけるな。一人が手を抜いたらその責任を他人が追わないとダメになるから、本来その責任を負う場所が手薄になってそこを突かれる。そういうやつが一人でもいるとそれで負ける。だからそういうやつは最初からいらん」

という事だった。

こういう「組織を育てる」にはまず「人を育てる」ということが大切なんだという経験をさせてもらった。

弱小チームになれてしまい「負け癖」「楽を覚える」「自己満足」「自己評価」・・という環境にいて、いつの間にかそれに疑問を感じない「ゆでガエル」になってしまうと客観的にそれを評価し指摘してもらえる人がいないとそれを脱却する事は難しいが、いくら客観的、俯瞰的にアドバイスをしたところでもう根っこから「ゆであがったカエル」には全く効果がない。

ゆであがったカエルは「聞く耳」を持たないから。

若いうちにこういう「経験」をしている人間は常に自分の「立ち位置」を確認するという「習慣」が出来るようになる。

立ち位置をなかなか自分で確認する事は凄く難しいので、常に「マイナス要因」に耳を傾けるようになる。こういう経験をすると「ゆでガエル」になる恐怖を知るから。

農業経営を始めると、「自分の評価は2割増し」と言われるように、どうしても自己評価は「盛りがち」になるもの。そうなると少しの遅れや気づきを見逃してしまい、それが毎年蓄積して行き「ゆでガエル」の方向に進んでしまう。

そうならないためには毎日を「意識」して感性を研ぎ澄ましておかないと、一度鈍った感性を取り戻すことはほぼ不可能に近い。

今年も今日で終わるが、今までも、そして来年からも

全てに対して「チャレンジャー」であることは何の変りもないし、自分が既存の延長戦でしか物事を考えられなくなったときはもう未来を想像する感性が無くなっている証拠なので、新たなチャレンジができないだろうから、その時は引退するということもまた変わらない。

 

 

 

俯瞰力 1

俯瞰力・・物事や状態の全体図を客観視することができる能力

つまり、俯瞰力を有しているということはまず、全体図が見る能力を有していないと物事を俯瞰的に捉えられない。かつ、客観視するには主観的視野から離れて物事を捉える必要がある。

中学高校と母校は野球の名門校で、全国から甲子園に本気で出たい、プロ野球選手に本気でなりたいという人間が集まる野球部だった。中学野球部の体験入学で、腕立て100回、腹筋100回というのは未だに覚えているが、そこを目指す環境ではそれはあたり前のことだった。

当然、小学生レベルでチームのキャプテン、エース、クリーンアップだったという人間が当然のようにいるし、先輩、そして後輩も毎年そんなレベルの人間が入部してきても何の驚きもないような環境だった。当然、自分は全くレベルが違う場所で、レベルの違う野球をしているのでプレーヤーとしては役に立たない。お呼びでない。いてもいなくてもいい選手。2軍に入るどころか練習について行くだけで精一杯だった。自分はピッチャーだったが、同級生の二人は中学生ですでに178センチ以上あったし、球速も変化球も同じ人間が投げているとは思えなかった。

しかし環境が人を育てるもので、いつのまにかその練習レベルが当たり前になってくるし、中学生の頃は練習以外に電車を途中下車して片道5.5kmの道をほぼ毎日、足腰を鍛えるために往復走って学校に通った。当時の2軍(3軍か?)キャッチャーと毎朝ブルペンで投球練習もした。たぶんあの頃は投球制限とか科学的な見地など全くなく、努力と根性とうさぎ跳び、水飲むな!の野球部だったから、毎日150球以上は軽く投げていたんだなと思う。結果的に大学時代にそれが引き金になって、自分の肩の投球規定回数を超えたので肩の鍵盤がボールを投げた瞬間に「プチ」っと音をたてて切れたW

それだけ練習しても、全く足元にも及ばなかった。全然レベルが違った。当たり前だわ。上手い人間は上手い理由があるから上手いわけで、練習の仕方が分かっているし、本気度が違う。なぜなら彼らは自分と違って「本気で」甲子園に出たいんだし、プロ野球の選手になりたかったんだから。そしてそのためには、高校でレギュラーになる必要があったわけだから。

しかし、全然レベルの違う人間でさえ、いやレベルの違う人間だからこそ自分が通用しないレベルを理解していて、高校の野球部に入部しない人も多々いた。当然、高校野球部は名だたる中学野球部のその本気度の人間が集まる場所だから、更にレベルは全く違う。当然、自分の努力の限界は、名門中学野球部では練習について行くレベルだった。

時間は有限で、中学生でもちゃんと目標をもって本気で行動する人間は、すべての人生のその時間を野球に使っていた。下級生でもどんどん自分よりうまい人間が入部してきた。グランドの中では先輩、後輩など全く関係ないし、どれだけ努力したかも、練習したかも、何年やっているかも関係ない。

評価はすべて結果のみのすっきりした世界だった。

当時の監督は自分たちみたいな人間がミスしても

「悔しがるのは練習したやつだけや。悔しがるひまあったら練習せえ!」やった。

自分は、中学生の時にそういう世界を知ったことは幸せだった。

 

続く・

 

 

人を育てるということ

農業はじめ、一次産業では後継者不足の問題がよく話題になるが、他産業においてもそれは同様の問題になっている。

別段それは今表面化してきたことに「今」やっと気づいたことではなく、人口の減少と日本の超高齢化社会と、若年層の減少期に入り、それは労働生産人口の減少がその根本的原因にあることはそもそも何十年も前から分かっている事である。

じゃあ、1次産業や、昔の職人気質の大工や、すし職人などいわゆる今まで「後継者不足」「3K」「厳しい」と言われてた産業全てが後継者不足かというとそうではない。

ハッキリ言ってしまうと、

「来ないところには来ない」し、

「いつかない場所にはいつかない」し、

「辞める職場はいつも辞める」のが現実だ。

そこには明確な原因がある。しかも共通項が明確に存在する。

以前、国内でも腕利きの70代の大工職人さんが今後の若手の育成を目的に、養成所を作り育成しているという番組を見た。驚いたのは、中学を卒業したての女子をはじめ、女子が数人いたことだった。

正確にいうと、今の時代女性が大工になるということが珍しいのではなく、その養成所が「厳しいのにも関わらず」女子や、若い子たちが20名ほどいたことだった。

そこでの生活は、完全寮生活で、朝5時起床してからは、炊事、洗濯、掃除はもちろん、殆どが雑務に下働きで1日が終わる。休みも殆ど無いし、小遣い程度は支給されていた。正直、今の若い子たちでは殆ど味わうことのない環境だったが、彼女たちの目がキラキラしていた。

そこには「人」が残る場所や産業の共通点が存在しているなと、その番組を見ていた。

先輩たちは、当然本職の大工仕事を終えてから、夜中まで後輩たちが学びたいことをサポートして教える。木材もそこの社長が提供する。先輩たちはそこで同じようにそうしてもらって学んだから、次の世代にそうする事はあたり前という前提で、何時まででも教えていた。

社長はもちろん経営者だから、仕事に対する妥協は全くなく、若手にも、見習いにも叱りつける。だけど、社長は必ず若手の社員の意見も聞きながらチャレンジさせるということに関しては止めない。当然、木材は高級な材料だからいい加減に任せる事はしない。いつも現場で曲がり、木目の見方や、これはこういう場所に使うんだから、この曲がりはおかしいんじゃないかとか必ず「目的」や「根拠」を伝えていた。

一方で、養成所の子たちは厳しい毎日が続く中で受けたインタビューで

「なんでこんなに厳しいところにいるんですか?」

という問いに

「社長さんは仕事にはすごく厳しいですし、よく叱られるます・・

 だけど、今まで本気で叱ってもらったり、注意してもらったりしなかったんです。

 先輩たちも、自分たちが聞いたことにまったくいやな顔しないで何時まででも付き合ってくれます。出来るようになることが嬉しいし、色々してくれる先輩や社長さんの期待に応えられるいい職人になりたいです」と。

結局のところ、こういう「背中」と「愛情」でしか人は育たない。つまり人が育たないのは自分の「背中」に魅力がないからで、受ける側が「愛情」と「本気さ」を感じないから。だから、給料を上げるとういういわゆる「お金でつる」という手段しかその場所に留める手段がない。だから、よりよい環境やお金が貰える場所があるとそこに行く。つまりそこの職場や人には愛情を感じないから。

自分は大学時代、社会人と、アメリカンフットボールをしていたが、練習はしんどかった。それ以上にコーチの方々、先輩が厳しかったけども「やることはやる」人たちだった。特にヘッドコーチは、他に仕事があるにも関わらず練習にも、練習後の夜中、明け方までのミーティングにまで付き合って頂いた。

そこで見た

「物事を成し遂げるにはここまでやらないと成し遂げられないんだよ」という姿勢や、「お前らが考えてたのは甘かったやろ?」

「これがお前らが考えてた掴みたい目標に行くためのあたり前やねんで。」

「お前らは何と引き換えにお前らが掴みたいもの掴むの?俺は、これだけ家族の時間や寝る時間や健康と引き換えにしてでも、お前らの掴みたいものに協力するで」という考え方や行動力を学んだ。

恩送りという言葉がある。

下級生の夏合宿は、下働きでしんどかったけど夕食食べた後よく「おい、お茶飲みに行くぞ!」って誘ってくれた。いつもお茶代とかご飯代とかもだしてもらったけどその時に

「自分に返さんでええねん。自分も先輩に同じことしてもらったから、俺で止めたら恥ずかしいやろ。俺だけ得して終わるだけやろ。だからお前も次に同じことしてやったらええねん」

広島カープの黒田投手も最後は年俸数億円を蹴ってでも、お世話になった広島カープに帰ってきた。若手にまだまだ伝えたいことがあったからだそう。

人を育てようとして「うちでは育たない」とよく聞くが、それは残念ながら正解を教えようとしているだけで、そんなことは本を読めば済む話。

一緒に悩んで、現場で汗かく「姿勢」を見せないかぎりその場にい続けないから、育たない。だから、リーダーは休みも一番ないし、しんどいところを受け持つんだし、体もきついし、何よりそれをやり遂げるだけの精神がきついもの。だけどそんな事は最初から「当たり前」なことなんだよなw

だから、みんなと同じリーダーはいないし、だんまりしてるリーダーはいないし、みんなが休んでるときに休んでるリーダーはいないし、みんなが行動しないから自分もやらないリーダーはいない。じゃなくても、自分はやるんだよねw

 

ブランド力とは・・

先日ブランディングについてのZOOM会議に参加したが、結局のところ「令和」」の時代においてのブランド力と「昭和」の時代においてのブランド力とはすでに異なっている位置にあるんだろうなと「確信」したこと。

ブランド化するなんていう言葉だけを追って、宣伝広告費や営業にいくら資金を投資したところでそんなものでブランド力が構築できるなら、大手や資本力のある所だけでしかブランド化して行かない。また、長くやっていればブランド化しているかというとそれもまた全く違う。設立して短期間でも、或いは規模が小さくてもブランド力のある企業、会社、個人事業者はいくらでもいる。

そもそもブランド力はつけようと思って付くものじゃなくて、求められる声が多くなってきてブランド化して行くものだし、いくら宣伝広告やインターネットでこの情報過多の時代に情報を垂れ流しても、そんなものは安売りのチラシの価格ほどの価値ほどしかないと思う。そもそも、世間一般で言われているブランド商品には、支払う対価、期待、想像、サービス以上のリターンがあるからで、だからリピートと口コミで広がる強さがそれを支えている。

さらに、令和の今の時代には、商品力だけや長くやってきただけではもはやそれも衰退しつつあるように思う。人間は常に「飽きる」から。

令和の情報が溢れている時代に人の「興味」や「共感」や「賛同」を得ないとそれは成り立たない。それは大手ではなくてもむしろ出来る時代に入った。

そこにあるものはその主体が持つ「イズム」や「生き方」「今までと違う何か」「そこでしか手に入らないモノ・空気・環境・癒し」など「既存の枠組みからはみ出した」部分だなと思う。或いは「今までにない何か」。

それは資金を投資しなくても出来るし、逆に長くやっているからこそ見つけられないものでもある。また、環境や考え方の異なる世界に身を置いたこと経験がないと、また異論や反論や議論、競争を避けている環境に育ってくると「刺激」による「現状を認識」する機会に巡り合うことがなくそれが危機管理能力をどんどん削がれていることに気付かなくなる。そうしているうちにある限られた意見や考え方こそが「絶対」だと脳に刷り込まれて、その限られた意見や行動をなぞっているとそれが「安心感」に変わってしまう。

それは、自分の周り(たった15人)みんなマスクしてないし、うがいも手洗いも手指消

毒もしてないから自分もしなくても大丈夫。なぜか?今まで大丈夫だったから絶対コロナにかからない!

というのと変わらない。

これからは昭和の「同じものならより早くより安くの既定路線の延長線上」つまり大手がそれを引き受け、子、孫、ひ孫・・での時代じゃなくて、それは「必要」なのか「不必要」なのか、その企業や個人を「応援したい理由があるのか」「そこになぜ行ってみたいのか」「その人にしか聞けないからその人に逢いたい」など・・生き方や価値観が変化してしまったし、もうそれに気付いているから。

昭和平成の金(資本力)から人や時間(知恵・生き方・思考・空間)に一気にシフトした。つまり人と違う「生き方」つまり「そういう人の存在」こそがブランドに変わった時代になった。

 

 

情報と咀嚼力

スマホや携帯を持つ事、PCやクラウド管理を行う事で簡単に情報や数字やデータが手に入る時代になった。数年前に比べると、簡単に「答え」が手に入る時代になったんだなと思う。

一方でそれだけに頼っていては、情報操作されればいとも簡単にそちらに行動を規制、操作、誘導されていることに気付かなく生きている。

自分はよく言っている事だけど、農業の世界でクラウド管理が進み、PCで全自動管理が可能になり、誰が作っても簡単にトマトの糖度が12度ぐらいになってしまうといつの日か

「昔のあんまり甘くないトマト食べたいよなー」とか

「昔の青臭くて土の香りのするトマト食べたいよなー」とか言う時代が来て、「甘くないトマト」の価値が上がる時代がやってくるんじゃないかと思う。

便利を「簡単に」手にした人と、「不便」を創意工夫で「自分流に便利に作り替えた」人とは、全員が同じ答えを持つようになったときに「意図的に」マイナス要因やプラス要因つまり、「違い」を引き起こす事が出来る。

他者依存して「自分で考える」という事を一度味わってしまい楽な方向に行ってしまうと、それがいつのまにか「習慣化」し、もう「しんどい」方向には戻れない。

常に自分で様々な変化や、情報を「咀嚼」して「判断」することを習慣にしていると自然と嗅ぎ分ける「臭覚」が身についてくる。つまり、感性が育つ。

未来を構築するのは「過去」データじゃなく未来を「想像」する力だから、これはスポーツの世界や麻雀の世界同様、「根拠のある確率論」になる。

昭和時代のように、同じ仕事なら「より安く」「より早く」が価値基準として評価された時代から、「ないモノを生み出す」つまり、「自分でこうなりたい」「こういう世界を作ろう」という「解」を想定し、その過程を構築し、計画を逆算し、必要なものを収集するということを「オリジナリティーを持って」これも他者依存することなく「行動」しないと、消えてしまう時代に変わってしまった。

楽は苦の種、苦は楽の種

人生はプラスマイナス同じ

高くとぶやつはその分しゃがんでる

これからの差は、これまでの差が出る時代にかわるだろうな。

 

論語の教え

志学 15歳 私は15歳の時に学問で身を立てようと決心し、

而立 30歳 30歳に学問の基礎ができて、自立できるようになり、

不惑 40歳 40歳になると心に迷いがなくなり、

知命 50歳 50歳の時に天が自分に与えた使命を自覚し、

耳順 60歳 60歳になると耳に入る言葉は何でも素直に受け入れられるようになり 

従心 70歳 70歳になると自分が思うことをしても、人の道を踏み外さなくなった  

とは、孔子が弟子に語った言葉。

時代が変化しようと、場所が変わろうと「本質」の部分は変わらない。

ということは、15歳で学問を志す事が無いと、30歳になっても自立できずに、40歳になっても周りの意見や生き方に惑わされ、50歳になっても自分の生きる方向性、自分がなすべきことを知ることもなく、60歳になっても狭い世界観や、過去に捉われたまま頭の引き出し増えず、時代感覚に取り残されるがゆえに「あーなるほど、そうなんだ!」の一言が言えず、70歳になってもとんちんかんな事を言い続けるから、学びに来る人がいないという事か・・

どんなことも、基礎がズレているものの上に築いても、崩れる場所は基礎の部分。毎回崩れる場所は同じ。それに気づけば、分からないことはすぐに聞くし、やり直すなら今すぐやり直す。

建物も、スポーツも「本質」の部分は変わらない。

手段に捉われても、手段は時代に応じて変化する。固定電話はスマホに変わったが、遠方と会話するという「目的」は変わらないし、情報収集も、ネットの普及で格段に向上した。今、辞書をひく人がどれだけいるのだろうか?

ただ、便利になり、容易に結果だけを手に入れる事でプロセスを築く習慣がなくなったことで、その過程において「思考すること」「失敗する事」「リカバリー能力を向上させること」「協力する事」「当たり前の事は何一つないこと」などを認識する機会は失われて来ているんだろうなと思う。

学ぶべき人を持つということは幸せな事。

コロナで世界も一変した。世界が変わるということは、一瞬にして必要と不必要が振り分けられるという事。まさに、ブレブレの基礎の上に築いてきたものは変化に対応すべき、踏ん張った瞬間に足元が滑って前に進めずにその場に置いて行かれる。

その時に、変化を許容し認識しないと協力者や賛同するものは得られない。

始まりの始まりに、どういう環境に身を置くかは大きいもの。