本当にご飯が食べられるということ
以前、西川きよし師匠にこんな質問があった。
「きよしさん、やすきよの漫才してはってご飯食べらるって思ったのはいつぐらいからですか?」という問いに対して
「ある時ね、タクシー乗ったらね、タクシーの運転手さんにこういう事言われたんですよ。」
「あんたら舞台の上で好き勝手なこと言うてお金もろうて羨ましい商売でんな」って。
「私、この言葉聞いたときに、あー自分らは漫才でご飯食べていけるて思いました」って言うてはったな。
本当のプロは、こんな凄いことやってますよとか、こんな条件やったらできますよとか、農業の世界なら、こんな高い資材使ってますとか、こんな農業栽培論で作ってますとか・・そんなこと言わないでも、当たり前に、いとも簡単にやってる「ように」見せる人が本当のプロやね。
でもその裏側には、緻密に計算された、ちゃんとプランニングされて、きっちりと様々なマイナス要因を予測して準備しているから「当たり前」に出来るわけでね・。
それが出来るまでには、ありとあらゆる失敗をして、責任転嫁しないでちゃんと再建して、リカバリーを繰り返してきたからこそ、頭の中に失敗と同じ数だけの修正能力と経験が蓄積される。
それがすべて未来を想像して、準備をする能力に変わる。準備をしっかりしているからこそ、様々な変化が起こっても対応できるから「いつも通り」淡々とやっている「ように」見えるだけ。
どんなことでも、本質に近づくほど構成要因が少なくなってくることに気付く。
本質に近づくほど、本質はシンプルな要因で構成されていることに気付くが、シンプルだからこそその頑丈さとブレなさが求められる。
枝葉の部分ばかりに気をとられていると、本質の部分が見えなくなって、うまく踊らされる。
根っこの部分は、枝葉が右に揺れようと左に揺れようと動かない。
やすきよの漫才も、そう見られるべく、来る日も来る日も同じネタを練習したんやろね。台本がまるで好き勝手しゃべってるまでになってやすきよのものに変わっていったんやろな。
どんなことでも、板について初めてほんまもんやな。